【熊野詣】おまけ・本地垂迹説とは?【ゆる~く説明】
写真が投稿できないというトラブル中でして…
予定を変更して、文章のみで語れる内容をお届けします!
というわけで、
熊野詣についてお話する中で出て来ました
「本地垂迹」って何!?
というお話です。
仏教が伝来したのは諸説ありますが、
元々日本には自然崇拝由来の神様がいました。
そこに仏様なるものがやってきたわけです。
当時は神道を推す物部氏と仏教を推す蘇我氏が覇権争いも兼ねて対立します。
戦争にも発展しますが結局、蘇我氏が勝利し、日本にお寺が建てられます。
ところが、寺院は皇族貴族のものであって、国家安寧を祈願するものでした。
今の伊勢神宮のようですよね。
それを民衆に教えたのが行基です。
その後、仏教は「拝めば救われる」「極楽浄土に行ける」という民衆に根ざした宗派も誕生し、神道同様に日本に根ざしていきます。
これが平安時代くらいのことです。
その中で生まれたのが「神仏習合」です。
「実は○○という神様は▽▽という仏様と一緒なんですよ」と解くことによって
民衆に仏教への理解と興味を広めたかったのでしょう。
例えば「イチキヒメ神は弁財天なんですよ」とか「オオクニヌシ神は大黒様なんですよ」など、所謂七福神に仮想したものが多いですよね。
これも民衆に近しいご利益をわかりやすく説くためではないでしょうか?
そして、その「神仏習合」の一種であるのが「本地垂迹」なのです。
「○○の神は□□という菩薩様の仮の姿なんですよ」
というもので、熊野権現のように権現様と呼ばれます。
え?神様は神様でしょ?
実は仏様の仮の姿とか…神様に失礼じゃない!?
と、思いたくもなりますが
あくまでも仏教側が民衆に取り入るための策なので…・
こうして、民衆に「○○神と□□菩薩、両方の御加護が得られる」と植えつけたわけです。
熊野の場合、そもそもは
奇岩を磐座として祀ったり、
山そのもの、滝そのものを祀っていた自然崇拝がメインだったと思われます。
そこに、花の窟神社のように「神様が降りられた」と、神道が入ってきます。
更に本地垂迹が入り、自然神仏三つ習合の独特の世界観が出来上がっていったのだと思います。
人間はわかりやすく、そしてなるべくすぐにご利益を得たいと思いますから
熊野三山はそこを上手に活用して栄えた…といって良いかと思います。
そして時代は下り、明治に入り廃仏毀釈や神仏分離が起こり、現在のように
「神様は神様」「仏様は仏様」となったわけですが、
ここにも、欧米などの列強の介入や、政府の人心掌握などの背景があると思います。
仏様も神様も、皆仲間!
この日本人が育んだ感覚は、今はすっかり薄れてしまいましたが、
この良いものは何でも取り入れ、更に発展させる日本人らしさの根源がここにあったと思いませんか?
熊野は神社ながらも仏教の片鱗を残す、今では稀有な場所です。
せっかくのこのミックス感を楽しみつつ参拝すると、
神仏習合華やかかりし頃の文化に触れた気持ちになれると思います。