伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【禁殺生石の謎】 李梅渓の「父母状」とは?

数日前、

【禁殺生石の謎】 初代紀州藩主の禁殺生 - 伊勢河崎ときどき古民家 で触れましたが、

紀州藩最古と確認がとれている禁殺生の石碑は、

初代藩主頼宣が立てたもので、李梅渓の手蹟によるものです。

 

「李梅渓は元和3年(1617)に李真栄の子として紀州に生まれます。

 寛永11年(1634)には家督を相続し、30石の儒者となります。

 藩儒学者永田善斎の弟子となり、京都にも遊学し、

 後に切米80石に加増されています。

 寛文12年(1672)「徳川創業記考異」を30年かかって完成させ

 幕府に献上するとその功績により知行300石に加増されます。

 のちに、葛城山麓の梅原村(現和歌山市)を与えられ、梅渓と号したとされています。」

李梅渓の墓 | 和歌山市の文化財

 

この李梅渓を頼宣は重用したようです。

頼宣は、「漆器の黒江塗やみかんの栽培を奨励し、

 紀州藩を大藩へと育てた優秀な政治家であった。

 また“父母状”と呼ばれる道徳的な規範を出し、

 親孝行の大切さや法律を守ることの大切さなどを説き、

 今に繋がる紀州人の精神性の基礎を築いた。」と言われています。

[特集] 受け継がれる紀州のココロ

 

この「父母状」を作成したのも李梅渓で、

親孝行の大切さや、法律を守ること、

正直を第一として家業に専念することなどが書かれており、

領内に配布されたり、習字の手本とされたといいます。

 

現在も海善寺に石碑があります。

(写真;寺社・名所旧跡(市内中心部)|和歌山市 さんより拝借)

 

f:id:itoshiya8ise:20200817204849j:plain

 

父母に孝行に、
法度を守り、
へりくたり、
奢らすして、
面々家職を勤、
正直を本とすること、
誰も存たる事なれとも、
弥能相心得候様に、
常々可申聞者也。

 

と書かれており、頼宣の手によるものと言われますが、

草案は李梅渓であるといいます。

 

父母状が触れ出されたきっかけは以下のような話です。

 

熊野で親を殺し捕まった者がいました。

「他人の親を殺したのならともかく、

我儘ばかりで家の者を困らす親を殺して何が悪い」

と反省もせずにいるので

役人も困惑し、頼宣公に上申すると、

「鳥や獣でさえ孝を知るというのに、人間がそれに劣った行いをするとは。

 これは熊野まで私の政道が行き届いていないという不徳である。」

と涙をこぼしたそうです。

「自らの罪が解らるように孝の尊い事を聞かせよ」と言って、

その役回りに儒者李梅渓を使わしました。
李梅渓は牢へ足繁く通い『孝経(こうきょう)』を読み諭します。

その者はいっこうに改悛しませんでしたが、

3年後、ようやく孝を軽んじたことに気付いたといいます。

頼宣は喜びつつも、

「道理がわかったといえども法の定めに従わせよ」

とその者を罰するよう命じたといいます。

頼宣は再びこのような者が出ては情けない事だと言い、

自ら筆を取って教訓状を書き、これを津々浦々まで張り出してよくよく論じ教えよと命じます。
それが父母状の始まりであるそうです。

父母状 : 紀州藩

 

この「政道が行き渡らないことを嘆いた」というのが

田丸や松阪の城下に見られる禁殺生石の原点ではないでしょうか?

 

また「古くから修験道の行場として知られる友ヶ島にある一島、

 虎島の絶壁斜面に刻まれた大きな碑文「五所の額」は、

 頼宣の命により藩の儒学者である李梅渓が刻んだものです

 「禁殺生穢悪・友島五所・観念窟・序品窟・閼伽井・深蛇池・剣池・寛文己酉離雕」と、

 友ヶ島の5つの行場が刻まれており、友ヶ島に渡る定期船からも見ることができます。」

と、禁殺生の文言の入った碑文が他にもあるようです。

寺社・名所旧跡(市内中心部)|和歌山市

 

「父母状」の事件から「禁殺生」を紀州藩の全域に行き届かせたかった頼宣の思いが

その後の藩主にも繋がったのかもしれません。

 

「禁殺生」石の原点はここにあると、私は考えます。

 


www.google.com