【禁殺生石の謎】 田殿丹生神社の石碑
和歌山エリア、有田川の流れる場所にもう一社、
由来不明の「禁殺生」の石碑を見つけました。
巨大サイズです。
無量光寺のものと似た大きさでしょうか。
ここは、田殿丹生神社。
その名の通り、水銀と関係が深い神社です。
御祭神は、丹生都比売神と大名草彦命。
その名の通り水銀の鉱脈を司る神で、
アマテラスの幼少期の説や妹神の説などがあります。
大名草彦命はその御子神とされています。
「当地はごご祭神によって開拓され、
その神恩を以って、
同時代に建立されたと伝えられる。
しかし、平安時代に大洪水の被害に遭い、
白山の麓に遷座されたという。」
天保10年(1839年)完成の紀州藩による地誌『紀伊續風土記』には
丹生大明神社 境内周十一町 禁殺生
末社三社
太神宮 氣比社 春日社
拜 殿 神輿舎 廳
鳥居戸の中白山の麓夏瀬の森にあり
一荘十三村の産土神なり
此即伊都郡天野丹生神社と同社にして天野祝文に
安諦夏瀬丹生忌杖刺給比(アテナツセノニフニイミツエサシタマヒ)とある是なり
古は丹生高野二神を二社同域に祀る
後霊夢により高野明神社を井口村に移す
此より丹生社を上宮といひ高野社を下宮といふ
古は社壇も壮麗に神田も廣く盛大なりしといふ
鳥羽院の御時真言の僧玄蔵聖人天野を學ひ寺院を社邊神谷といふ地に起し七堂伽藍二十一坊を建て神谷山最勝寺と名つけ本坊を菊坊といふ
大門より奥院まで八町其間町石を建て大に佛區を創む
天正中豊太閤悉寺領を没収す
浅野氏の時堂塔伽藍を破却し盡く若山に移す
此時當社の古記録悉散亡す
今最勝寺の跡田地となり菊ノ坊 堀ノ坊 岡ノ坊 上ノ坊 下ノ坊 谷ノ坊 内分坊 坊正院 清水院 來迎寺 権願寺 本堂 反橋 大門等の名残れり
又伽藍の什寶此邊の近寺に古書古佛古器等を轉傳す
最勝寺廃する後唯一の神社に復す
祭礼九月十一日流鏑馬あり
神輿下宮に渡御す
古は祭式も甚厳なりしといふ
神主島田氏あり
と記載されているそうです。
つまり、一時は最勝寺というお寺だったそうなのです。
この「禁殺生」石はその名残かもしれません。
禁殺生の石碑は寺院に建てられたのでしょう。
そうだとすれば、仏教的な文言に合点がいきます。
ただ、この二社の石碑の由来が全くわかりません。
田殿丹生神社はHPもFACEBOOKもありますが、
全く触れられていません。
『続風土記』にあるように、浅野氏の時に全くわからなくなったのでしょうか。
だとするとこの石碑が作られたのは
紀州に初代藩主頼宣が入る前ということになりますから、
頼宣の立てた岡山時鐘堂に残る「禁殺生」より古く、
頼宣はこれらの石碑を真似た可能性も出て来ます。
もうひとつ気になるのが『紀伊續風土記』にある「禁殺生」の文字。
まだ少ししかこの書を見ていないのですが、
この「禁殺生」が添えられている神社とない神社があるのです。
この差は?
「禁殺生」石の有無なのでしょうか?
時間がかかりそうですが、紐解いてみたいと思います。
さて、田殿丹生神社については余談ながらも面白い推測をしているブログ記事がありました。
本来の御神体は山中の磐座ではないか?
という説で、壁画のようなものもあるというのです。
田殿丹生神社・水銀の神の壁画? - 神秘と感動の絶景を探し歩いて Beautiful superb view of Japan
丹生神社といえば、多気町にもありますよね。
その近く…とは言い難いですが、度会に山崎の大岩という磐座がありまして、
そこにも「壁画?」と囁かれる太陽にも月にも見えるような丸が浮かび上がっています。
上記の記事を見てふと思い出しました。
(全くの余談ですが…)
田殿丹生神社HP http://www7b.biglobe.ne.jp/~tadononyujinjya/
(写真;googole map より拝借しました)