伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【禁殺生石の謎】 御狩場との関係の可能性を推理する

はい。

まだまだ「禁殺生」の謎は追っていきたいと思っていますので

こうして時折、【謎】シリーズを登板させますので

よろしくおつきあいいただければ…と思います。

 

今日は、先日辿り付いたこちらのサイトを拝読して

思いついたことを勝手に想像→推理したいと思います。

 

松阪の綱差・牧野家、江戸へ−将軍・吉宗 鷹場制度を復活

 

↑手前勝手に要約させていただくと…

 

  戦国時代の武将や江戸時代の将軍・大名が行った「鷹狩り」。
  多くの人が関わり、鷹場となった地域では様々な行為が制限されるなど、

  まさに将軍や有力大名にのみ許された権威の象徴であった。

 

  紀州藩徳川頼宣に対し

  「伊勢一国並諸道中一里通殺生其方可任意者也 仍而天気執達如件

  という勅許が出されていた。

  つまり、伊勢国一円と諸街道の一里以内の範囲が紀州藩主の鷹場として良しということだ。


  1660(万治3)年12月の参勤交代の際に一志郡内、

  翌61(寛文元)年9月の松坂付近などの鷹狩りの例が見られる。

 

  1716(享保元)年吉宗紀州藩主から将軍になると、

  5代将軍綱吉の「生類憐みの令」によって一時休止していた鷹場制度を復活

 


  鷹狩りを行うためには、鷹をあやつる鷹匠のほか、

  鷹場となる現地にも鳥見役・綱差(つなさし)・鶴飼付役など、各種の役職者を配置していた。

  鳥見役は鷹場の確保で、家屋の増改築の検分をはじめとし道や橋の整備の指示、

  歌謡・御曲や普請の騒音規制、耕作時期の指示など、

  絶大なる権限をもって村々の生活のすべてを監督した。

 

  幕末期の伊勢国のこれらの役職者を見てみると、

  松坂御鳥見役14名・一志郡鳥見役10名・田丸鳥見役9名・

  白子鳥見役16名・川曲郡鳥見役9名が任命され、

  ほかに伊勢国全体で綱差并鶴飼付役24名がいた。

 

というわけで、ピンと来た方もいらっしゃることでしょう。

「禁殺生」寺社境内は鷹狩禁止区域だった可能性はないか?

と、思ったのです。

 

↑上記サイトの気になる部分を上げさせていただくと…

 

  • 鷹狩OK=「殺生OK」の許可をもらったのが頼宣(禁殺生石碑建立の元祖)。
  • 鷹狩りを再興したのが吉宗で享保元年=禁殺生石の多くが享保年間に建立。
  • 松阪、田丸など禁殺生石が多い場所に鳥見役が置かれた=鷹狩りがよく行われたエリアでは?

 

これは偶然の一致でしょうか?

 

紀伊風土記』 ( 天保10年(1839年)完成)の
 丹生大明神社  の項には

「 境内周十一町  禁殺生 」

とあります。

 

今まで考えていた境内の自然と歴史保全のための領域にしては禁殺生区域が広いのです。

これはこの区域で鷹狩りは禁止という意味もあったのではないでしょうか?

丹生大明神社は古来流鏑馬も行われる古刹です。

 

また、『紀伊風土記』に「禁殺生」の文字のない神社も

この観点で考えると答えが見えて来るのではないでしょうか?

 

もうひとつ気になるのは「鳥見役」です。

鳥見役は絶大な権力を持っていたそうなので、

鳥見役同士で結託して禁殺生石を建てることもできなくはないのでは?←妄想的推理

 

吉宗が修理費を寄進したという尾前神社の棟札には、

松坂城代をはじめ、白子代官所の役人として仕えた郡奉行、 郡山村(現 鈴鹿市)の大庄屋や大別保村(現 河芸町東千里・西千里)の庄屋などの名前が記され、
 石碑の建立に多くの人物が関わったことが分かるといいます。

これを鳥見役が差配していた可能性は…?と思うのです。

 

以上、全くの妄想推理ショーとなりましたが、いかがでしょうか?

 

 

余談ですが、

私の地元の東京都世田谷区と目黒区の狭間に

鷹狩りの将軍が休憩した御用屋敷

という場所があり、説明の立て札が立っています。

この屋敷が建てられたのは吉宗の頃だといいます。

 

近くの病院に家族が入院していたので、偶然知ったのですが、

ここは246方面を見下ろす斜面途中の平地にあたり

当時は景色も良かったことと思われます。

  

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↓がその説明文です。

見逃せないのがここにも「鳥見役」の文字が!

やはり鳥見役、侮れないポジションだと思われます。

表のお庭番のようなイメージさえ沸きます(妄想)。

 

吉宗は松阪からお気に入りの鷹場役人を江戸に寄せたりもしたそうです。

(この人は葛西で任に就いていたようですが。)

吉宗は鷹狩りに思い入れが強かったのではないでしょうか?

 

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今でも東大前の「駒場」や、自由が丘の近くの「鷹番」など、

言われてみれば鷹狩りに由来しそうな地名が多いのが目黒です。

 

歴史を訪ねて 目黒の鷹狩り 1 目黒区

 

↑上記サイトにも、鷹狩りのための領民の苦労が綴られています。

その様子をうたって

「権兵衛が種まきゃ、カラスがほじくる、三度に一度は追わずばなるまい、ズンベラ、ズンベラ…」

という俗謡が生まれたというのですが、

面白いことに同じ俗謡が和歌山にも伝わるそうです。

 

今まで伊勢に住んでみて、伊勢と東京(特に私の地元世田谷界隈)とのご縁に驚くことが多かったのですが、

こうしてみると江戸時代から世田谷目黒と伊勢紀州は繋がっていたのですね。

 

この場所に御興味のある方は下記ブログが詳しくご案内してくださっています。

(私も参考にさせていただきました。感謝。)

 

駅からハイキングに行ってきました♪ : 移り変わる渋谷界隈と今話題の奥渋谷を歩く

 

2020/06/02 池尻散歩 03 水車跡/清流の復活・目黒川/大橋/上目黒氷川神社・目黒富士浅間神社/東邦大学医療センター大橋病院/鷹狩の将軍が休憩した御用屋敷 - ovanの社会科見学

 

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