【禁殺生石の謎】 和歌の浦について追記
昨日の記事中で、和歌(の)浦について述べましたが、
資料がありましたので、追記です。
和歌浦は奈良・平安期には貴族にも愛された名勝で、
特に聖武天皇は即位後に和歌の浦に行幸した際にその景観に感動し、
この地の風致を守るため守戸を置き、
玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発したといいます。
初代紀州藩主頼宣は、和歌浦にある雑賀崎に父・家康を祀る東照宮を創建します。
その当初は旧来の和歌浦と呼ばれる広い範囲が境内地あるいは宗教的聖域とされ、
頼宣も保護整備に努めたといいます。
この和歌浦の入江を埋め立てて新田開発しようとした者に、
「和歌にも詠まれた名所旧跡を破壊して神殿を開くなどとはゆめゆめ考えるな。
末代まで恥をさらし万人の笑いものになりたくない」
といったと『南紀徳川史』に伝わるそうです。
(『和歌山県の歴史』 山川出版 より)
つまり、天皇や歌人に愛された景勝を保護することを頼宣は優先しているのです。
その後頼宣は、民衆にも景観を楽しめるように
玉津島神社の東方にある小岩島に建てた観海閣の利用を許可していたり、
10代藩主治宝は、塩釜神社と東照宮の間に不老橋という橋を架けたりしていたりします。
そして、和歌浦に浮かぶ友ヶ島(地ノ島、神島、沖ノ島、虎島の総称)の虎島内に
頼宣の命令を受けた李梅渓が葛城修験道における5つの「行場」を書いた「五所の額」を彫りました。
(現在もその跡が残っているそうです)
なお、修験道の山伏修行では今でも虎島にあるこれらの行場へ向かい、
断崖絶壁の崖を上り下りして修業を行なうといいます。
再三述べてきているように、この「五所の額」に「禁殺生」の文字があります。
頼宣は、景観保護とは自然をありのまま害さないこと、
それはそこに住まう動物も害してはならないと考え、
歴代藩主もその考えを踏襲したのではないでしょうか?
和歌浦を詠んだ有名な和歌に
「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」
があります。
まさにこの景色を守ろうと、紀州藩主は思っていたのではないでしょうか?
そしてその甲斐があって、
現在も国指定の名勝として、自然海岸を残す西部の雑賀崎周辺は
瀬戸内海国立公園の特別地域に指定されており、其々保護されているそうです。
(和歌浦 - Wikipedia)
このことを鑑みるに、
享保甲辰をはじめとする「禁殺生」も
その境内やその近隣の保護を藩が命じたものであったと思えてなりません。