【禁殺生石の謎】 形状のはなし。
この「禁殺生」の石柱には、一定のスタイルがあります。
まず、田丸城下の摂社に置かれたものに関しては、
ほぼ境内の入口に置かれています。
向かって左手が多いです。
(↓写真;園相神社入口)
江戸期に記された『勢国見聞集』にその大きさが
「三尺四寸、幅八寸」とあるそうですが、
大体120~130cm×25cmといったところでしょうか。
先端が平坦ではなく、
ピラミッドを押しつぶしたように少しとんがっているのも特徴です。
「禁殺生」を正面として、
左に「享保甲辰」、右に神社名が刻まれています。
享保甲辰の他の年のものもありますが、
田丸城下の摂社に置かれたものは全て甲辰年です。
字体はどれもほぼ同じです。
(↑写真;奈良波神社)
神社名は書体が異なるという指摘もありますが、
素人目には「読みやすい毛書体」で一致していて
どれもほぼ同じに見えます。
(↓写真参考)
そして、もうひとつの特徴は「字がきちんと判読できること」だと思います。
屋外で風雨にさらされているのに、どれも崩れておらず、磨り減って読めなくなったりしていないのです。
これは、この石が「肌理の細かい良い石」を使っているのでは?と思います。
紀州藩、良い石・高価な石を使ったのでしょうか?
この石は砂岩に分類されるようです。
「井関石」「日川石」と呼ばれる石材を使ったと推定されています。
この石は一志町から採掘される特産品だったそうで、
常夜灯や民家の土台石に使われたり、
御地蔵様が彫られたりもしていたようです。
イメージとしては、紀州藩が石工に外注を出し、
石工が加工場で大量採算を請け負う…といった感じです。
ローマが舞台の漫画『テルマエロマエ』で、
主人公の友人の石工が皇帝から美少年の彫像を大量発注されて量産する場面があるのですが、そのイメージです(笑)。
そして、石工の腕もかなり良かったからこそこれだけ綺麗に現存しているのでは?とも思います。
紀州藩お抱えの職人さんだったのかもしれません(妄想)。
神社には、この「禁殺生」石の他にも石の目印が色々あります。
↑写真の朽羅神社は境内入口に特に沢山の石柱が立ちます。
番一番左の木の手前にあるのが、「禁殺生」石です。
他は、字が磨耗して読みにくいものもありますが、
「禁殺生」の手前のものは、神社名を表したものです。
(写真↓)
奥にある石柱の字はほとんど判別が出来ませんが、
他の神宮摂末社にもある、神社名を明記したものだと思われます。
(写真↓)
他にも摂末社の境内の外側で時折見られるのが
「神宮」と掘られたやや小さめの石柱です。
(写真↓)
「これは「ここからが神宮の所管する土地ですよ」という目印だと思います。
神社入口の小さめの神社名が刻まれたものも同様の役割のものかと、私は思っています。
所謂「結界石」とも呼ばれるものの仲間ですね。
石碑は、そこに長く留め置くことができるので、
道標にも使われますし、
モニュメントとしても造られたりもします。
また、「石」そのものにアニミズム的に霊力をみたり、
巨石を庭に据えるのをステイタスとしたり…
素材としても興味深いですよね。
そうそう、天の岩戸や黄泉の国の入口を閉じたのも「石」ですね。
(様々な石の参考→
https://www.togakushi-jinja.jp 女人結界碑 - 戸隠神社/)
紀州藩はなぜ「禁殺生」という、まぁ神社仏閣ならば当然であるこの禁制をわざわざ表す石碑を建てたのでしょう?
そして、それがなぜ享保に成されたのか?きっかけがあったのか?
もう少々深堀していきたいと思います。