伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

山田産土八社からみた山田三方

伊勢神宮・外宮の御膝元の産土の神・

「山田産土八社」をめぐり、

気がついたことがあります。

 

それは、この産土の地と「山田三方」の係わりです。

 

f:id:itoshiya8ise:20200725094242j:plain

 

須原大社のご由緒には、以下のようにあります。

 

f:id:itoshiya8ise:20200727103427p:plain

 

また、坂社の御由緒にも以下のように…。

 

f:id:itoshiya8ise:20200727104648p:plain

 

山田三方とは、

室町時代には自治都市だったとされる

山田の町の自治組織のことです。

 

三方寄合(さんぽうよりあい)、

三方老若(さんぽうろうにゃく)とも呼ばれたようで、

 

三方ト云フ事ハ、古ヘ山田ヲ三ツニ分ケテ

坂方、須原方、岩淵方と云フ、

是ノ三方ノ年寄ノ長タル人家也。

故ニ御朱印ニハ年寄共トアリテ『三方』ト云フ名目ナシ。

思フニ三方ノ年寄ト云フ、

其次ノ郷事ヲ沙汰スル者ヲ『月行事』ト云ヒタルニ、

彼ノ三方ト云フ事、役職ノ号ノ如ク成リテ、

公武トモニ通ズル事ニナリタル故ニ、

月行事年寄ノ月行事ノ字は消エタリ。」

(『神都雑事記』)

と記されていますので、

「老若」はこの「年寄」と「月行事」を指すのかもしれません。

 

それより注目すべきは、序盤の一文ですね。

 

更に『神宮典略』には

「山田三保、即ち後の三方と云う地域は

凡そ何処辺を指したかと云ふに、

江坂方、須原方、岩淵方と沼木郷山田村に三保見ゆ。

其の屯所を考ふるに江坂は坂世古なり、

須原は上中郷を云ふ。

岩淵は今も町名に存せり。」

と記されています。

 

岩淵はどこかといいますと、

↓地図の宇治山田駅近辺の赤線で囲まれたところです。

 

f:id:itoshiya8ise:20200727104728p:plain

 

つまり、八社の中でも

須原大社、坂社、箕曲中松原神社は

特に山田三方のランドマーク的な産土であったのでは?

と推測します。

 

残念ながら、箕曲中松原神社の御由緒には

特にその件については記されていないのですが…。

(↓写真)

 

他の二社の御由緒から「岩淵」=「美野」であることはわかりますし、

その産土神はいくつか存在してきたかとは思いますが、

「みのしゃ」の古名を持ち、

現在「山田産土八社」を冠されている箕曲中松原神社が

岩淵の産土神のボスであったことは確かではないかと思います。

 

f:id:itoshiya8ise:20200727111314p:plain

 

永享年間(15世紀前葉)、

神役人達は伊勢大神宮の刀禰の勢力を駆逐して山田に自治組織を樹立して

山田三方会合所(やまださんぽうえごうしょ)という役所を設け、

伊勢神宮に対しては賦課を勤仕し、

爾来幕末に至るまで、山田の町政を荷負ってきたといいます。

山田三方 - Wikipedia

 

須原大社の御由緒書きにあったように

この「山田三方会合所」は

須原大社のすぐ西隣にあったようで、

今もその跡地の石碑が道路沿いに残ります。

 

f:id:itoshiya8ise:20200727104820p:plain

 

坂社界隈は八日市で栄えましたが、

須原大社そばには会合所が置かれ、

箕曲中松原神社には後々山田の駅が置かれ、

どの地も山田の中で特別な立地であったことが伺えます。

 

また、山田の経済というのが

中世近世に於いてはかなり画期的で近現代的でもありました。

そのお話はまた別の機会に…♪