【125社めぐり】 外宮 末社 志宝屋神社
外宮 末社 志宝屋神社 (しおやじんじゃ)
御祭神 塩土老翁 (しおつちのおじ)
宮川、五十鈴川、そして勢田川、
伊勢を流れる3つの川が海へと注ぐ河口に建ちます。
近くに駐車スペースはないので、
やはりこちらにも自転車がオススメ♪
気持ち良く晴れた日には自転車には最高のロケーションです。
ただ、伊勢界隈は本当に運転がこわいです!
車のマナーが、かなり危険!
そして自転車も歩行者も少ない道だと白線が草で埋っていたり!(爆)
気をつけてくださいね。
(自分、伊勢で3回はねられそうになってます)
でも、この大湊界隈は比較的安全です。
橋を渡るのも気分爽快!
志宝屋神社は第二湊橋を渡って、住宅街に入っすぐのところにあります。
道路側が水田になっていて見渡しがいいので
末社のこんもりとした森が見つけやすくて有り難いです。
私の配偶者殿曰く
「奈良で森だと古墳で、伊勢だと摂社末社なのな」
そのとおり。
そのせいか、田んぼの中にまるまるとした森を見つけると
「あれ?こんなところに摂社!?」と思ったりしていまいます(笑)。
志宝屋神社の森は、堀のような用水路に区切られています。
そしてこの用水路、地図で見ますと
大湊エリアをぐるりとほぼ周回しているのです。
田畑への用水のためかと思いますが、河崎のように環濠なのかもしれません。
大湊は伊勢への水運の拠点として栄え、
堺や博多などと並ぶ日本の代表的な商業都市として名を馳せました。
また、古くから造船業も盛んでした。
現在も「わぁ。立派で素敵なお家だなぁ」と
思わず足を止めたくなる住宅が多いのもうなずけます。
大湊の町は古くは「大塩屋村」と呼ばれ、
造塩業が盛んで、
伊勢神宮に奉納する御塩を焼く村人が多かったといいます。
社名の「しおや」はそこに因むと思われます。
「塩屋明神」、「湊の明神さま」、「明神さん」と親しまれ、
この社のある森は「鵜の森」と呼ばれるようです。
地元の信仰の濃さが見えますね。
安産の神としても広く信仰されているといいます。
(なぜかは不明)
「鵜の森」といえば、四日市にも「鵜の森神社」があります。
元々は「 鵜森大明神」と称していたといいます。
鵜森の語源は昔付近一帯が松林の続く海岸で、
海鵜が多く生息していた森ということに由来していると言われますので、
志宝屋さんの森にも海鵜が多かったのかもしれません。
御祭神の塩土老翁は「塩業、海路守護の神」とのことです。
(神宮会館HP)
山幸彦・海幸彦の逸話では山幸彦を導き、
神武天皇には東征を決意させ、
まるで導きの神のようです。
導きの神―猿田比古を祀る白鬚神社の中には
塩土老翁を祀るところもあるそうです。
それは上記の所以かもしれません。
また、天孫降臨において、
ニニギ命に自分の国を奉献した事勝国勝長狭神が
事勝国勝長狭神…何だか誰かの名前と似ているような?
そうです、ニニギの父・正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)です。
こちらはスサノオの子でアマテラス大神と誓約をした時に生まれたとされています。
ちなみに、ニニギは(数多ありますが『日本書紀』では)
天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)です。
…余談が過ぎましたが、
塩土老翁は「潮つ道」の神
であり、海流を司るとも言われます。
それ故に「導きの神」とされることが多いのだと思います。
「航海の神」とされているのもこの「海流を司る」所以ですね。
まさに大湊の町にぴったりの神様です。
志宝屋神社の境内は、外観よりも広く、
参道がまっすぐと伸びます。
手水舎の水盤は船のかたち。
御食神社と同じです。
これも船の町・大湊にぴったりの風情ですね。
社殿は右に折れたところにあり、参道に平行した向きです。
やはり地元の信仰の篤さを感じさせてくれます。
『延暦儀式帳』成立の延暦23年(804年)以前に創建されたはずですが、
志宝屋神社の創始は未詳です。
宮城県塩竈市の鹽竈神社より1座の御魂を分霊して祀ったとする伝承があるそうですが、
これには少々マユツバです。
塩土老翁を祀る神社の総本宮が鹽竈神社である故だとは思うのですが、
上記の考察から、もっと自然発生的に生まれた土地の神のように思えるのです。
そこに後から塩土老翁=鹽竈神社を当て込んだのかもしれませんが…。
ただ、鹽竈神社では塩土老翁を主祭神、武甕槌神と経津主神を左右に祀っていて
社伝では、武甕槌神と経津主神が塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとするそうで、
武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、
人々に漁業や製塩法を教えたといわれるそうです。
神武の東征の際に布都御魂の剣を用いて熊野を平らげたとも言われます。
布都御魂と経津主神も「ふつ」の繋がりがありますので無縁ではないと想像できますし、
そうです。石上と伊勢はやはり繋がるのです。
(*考察中の自説です)
そして、ここにも藤原氏の影が…。
そして、鹿島に近い辺りの千葉県内にはその時代と縁の地名も多く、
大津皇子が逃げこんだという伝説の神社もあります。
(数年前に訪れました)
そういえば、伊勢はけっこう藤原氏の血も濃いという話を
由緒のある血筋の方が力説してました。
上述した四日市の鵜の森神社は、
1470年に築城されたとされる浜田城があったところで、
浜田城主の先祖といわれているのが藤原秀郷です。
伊勢の藤原色は想像より濃いのですね。
さて、志宝屋―塩家から、
二見の御塩殿神社を思い起こす方もいらっしゃるかと思います。
私もです。
造塩の話といい、二見と似た感じがしますよね。
御塩殿神社の祭神は御塩殿鎮守神ですが、塩土老翁とする説もありました。
【125社めぐり】 所管社 御塩殿神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
塩つながりなだけで無理がある!
と先だっての記事↑では述べましたが、
よくよく塩土老翁を調べていくと、
そう簡単に一蹴できなさそうです。
潮を司ることに着目してみると、
「二見が常世の浪が最初に打ち寄せる」と言ったアマテラス大神の言葉や
神武の東征の導きと熊野のヤタガラスの伝説など
けっこう繋がってきていまいます。
御塩殿神社の御祭神を塩土老翁
とした説はこのリンク感もあってのことかもしれません。
そしてその元となったのは
志宝屋神社であることは間違いないでしょう。
志宝屋神社のある大湊の三角州は防波堤に囲まれています。
明応地震(明応7年8月2日・1498年9月11日)により、
大塩屋村の家々1,000軒が津波の被害にあいました。
志宝屋神社もともに流され、失われたといいます。
その後、寛永21年(1644年)に再興され、今日に至るそうです。
それからは祭祀は途切れることなく、
つい先月も社殿の建て替えが行われたそうです。
…見たかったですが、見られなかったので
大先輩のブログで堪能させていただきました。
上棟祭の朝、新しい社殿の屋根には雁股(矢)と鏑矢、志宝屋神社(豊受大神宮 末社) – 神宮巡々3
夕刻に御遷座を終えた志宝屋神社(豊受大神宮 末社) – 神宮巡々3
というわけで、今は右に社殿が建つのですね。
まだ比較的新しく見えた社殿も見比べますと、新しい方は白さが違いますね。
志宝屋神社は、特に好きな末社のひとつです。
(自分の名前と似てまして…)
港町の風と光に満ちて気持ちがいい大湊の町を経て
新社殿に早く参拝したいものです。
そういえば、大湊=大津、ですよね?
大津神社ってもしかして…???
謎は尽きませんが、
外宮摂末社編はとりあえずここまで…です。
(2019.10.6.参拝)