【125社めぐり】 外宮 摂社・志等美神社 / 摂社・大河内神社 / 末社・ 打懸神社 【伊勢の寺社】 上社
外宮 摂社 志等美神社 (しとみじんじゃ)
御祭神 久久能智神 (くくのちのかみ)
同 摂社 大河内神社 (おおこうちじんじゃ)
御祭神 大山祗神 (おおやまづみのかみ)
同 末社 打懸神社 (うちかけじんじゃ)
御祭神 打懸名神 (うちかけみょうじん)
外宮の北にある伊勢市立図書館のある道を直進。
宮川に至る手前を北へ。
住宅街の中に鎮座しています。
私は少々迷ってしまいましたが、
境内はとても広く、
近くには「久留山 威勝寺跡」もあり
辺りは落ち着いた雰囲気です。
「上社」の境内の中にあり、
境内の入口の鳥居も上社側と志等美神社側と
L字に二ヶ所立ちます。
入口も分かれています。
手前に末社・内掛神社、
奥に摂社2社・志等美神社と大河内神社が同座しています。
志等美神社の御祭神・久久能智神、
大河内神社の御祭神・大山祗神、
打懸神社 の御祭神・打懸名神、
いずれも「宮川堤防の守護神」とされています。
公式に一番近いと私が思っている神宮会館のHPにそうあるのですが
何だかザックリとしすぎていて、ピンと来ません。
打懸明神の「明神」とは元来、神仏習合における神の呼び名です。
打懸の「かけ」は懸税(かけちから、稲穂)のことと言われますので
稲穂を打ち掛ける新嘗祭のあとの社の姿を彷彿とし、
「神宮の社の神様」という呼び名に感じられます。
そもそも神様の名前と「宮川の守護神」がマッチしていないんですよね。
百歩譲って、山も木も川を守るとはいえますが、
打懸明神…川の氾濫から稲を守る…?
基本的に自然崇拝を根本としている神宮の神様たち、
氾濫の多い宮川を守ってくれる神はどこかしらかで全ての神に繋がりますよね。
その釈然としない思いを紐解くヒントは上社にありました。
上社の御由緒に、こちらの3柱についての説明があります。
…御祭神が同じ?
もしかして、逆に上社の祭神だったのでは?
上社の境内にはいくつかの社が点在しています。
上天神(菅原道真公)
上社稲荷大明神
など。
そして打懸神社は前述したように新嘗祭で稲穂を掛けることに因んだ神を祀っていたのでは?
埴安神・宇迦之御魂神の4柱を当初からの祭神とし、
宇迦之御魂神4座・菅原道真・天忍漁人命(あめのおしあまのみこと)・誉田別命・不詳2座の9柱を
明治41年(1908)合祀しています。
伊勢の辻久留、中島、二俣、浦口の四町の神社を合祀したかたちです。その合祀した13社がこちらです。
稲荷社 山神社 小川社 並社 (辻久留町)
稲荷社 土井稲荷社 大杉稲荷社 (浦口町)
二俣菅原社 田村社 (二俣町)
稲荷社 掃守社 八幡社 浅間社 (中島町)
太字のものが元々上社に祀られていた社で、
並社は八王子社で御由緒の通りのスサノオ命の子が祭神です。
小川社は未詳ですが、その名から川の神を想像しますね。
(御由緒の最後にさらっと書かれた宮川守護の神?)
注目したいのは、
いくつかある稲荷社の祭神は宇迦之御魂神 で、
特に土井稲荷の祭神の別名は姫ヶ池大明神と言われます。
宇迦之御魂神は内宮摂社でも時に現れ、
そこでも述べましたが、
そして櫛玉社の記載はありませんね。
…申し訳ないけれど、
御祭神、絶対にごっちゃになってますよね?
摂社二社で伊勢津彦と伊勢津姫が祀られているならば
度会氏とのつながりともスマートに理解出来ます。
打懸明神は「稲の神」→「稲荷明神」→「打懸明神」の流れが顕著ではないですか?
上社は地元の信仰が篤い神社ですので
返ってそういった混合がされたのでは?と思うのです。
志等美神社は、「蔀野井庭神社」(しとみのいばじんじゃ)と記された例もあり、
蔀野は鎮座地周辺の名前だそうです。
「しとみ」とは「水に浸る」という意味であると解釈する説もあります。
「しとどに濡れる」から来ているのでしょう。
確かに宮川の氾濫から草地が濡れそぼる様子に因んでいてもおかしくありませんね。
また、「井庭」は堰のことだと言います。
つまり、社名は宮川堤防の守護神を表します。
ですがこれを木の神と結びつけるよりは
宮川の整備にも着手したであろう伊勢津彦―度会氏を祀って
労うと共に川の守護をお願いするために祀ったのではないでしょうか?
志等美・大河内・打懸の3社も
戦国時代になると建て替えが行われなくなり荒廃したと言います。
後代に地元の住民が産土神として崇めるようになり、
室町時代には「二俣社」、「二俣八王子社」、「牛頭社」と記されるようになります。
志等美・大河内両社の旧社地を懸命に捜索したが見つからず、
仮の鎮座地として、外宮宮域内の高倉山岩戸坂に社を設けたといいます。
その後の建て替えの際に、
辻久留南方の「ヤバコ」・「ハナヒシゲ山」に遷座したものの
社地に異論があり、明治十六年、辻久留の牛頭社に遷座されたといいます。
「牛頭社」が「上社」と呼ばれるようになったのは、明治に入ってからのことです。
このことからも、
摂末社3社よりも、上社の信仰が篤く、
その祭祀が神宮ではなく上社へと流れたことが想像できますよね。
もうひとつ、この3社には特異な点があります。
それは、神位が授けられていることです。
神宮摂末社の中で神位を贈られているのは、これら3社のみです。
『式内社調査報告』にも以下のように書かれています。
「注目すべきは、崇徳天皇の大治三 年(一一二八)に
大河内社・打縣社とともに神階の昇叙せら れてゐることである。
神宮諸社中、神階を有するのはこの 三社に限られたことで、
即ち『類聚神祇本源』に、
一 | 、 | 志止見・打縣・大河内社増位事。 |
件三箇社、爲二防レ河堤守護一、可レ被レ増 二進位階一之由、 | ||
次第上奏之所、被レ進二勅書一。 | ||
勅正五位下志止見名神、 | ||
今奏授従四位下。 | ||
大治三年六月十日 |
とあつて、
これよりも以前の時点で
すでに正五位下の神階 を授けられてゐたことが知れるのである。」
宮川の守護を称えて、神位が上げられたという記載ですね。
地元の神―産土神の神社のように祀られてつつあったのでは?
と私は思ってしまいます。
度会氏に関連した祭神を持つのが外宮の摂末社の特徴だと思います。
度会氏=産土、のような感覚があると思えるのです。
そして、産土神≠神宮の神、だと考えます。
神宮会館のHPにも
「奥の神社は、産土神をまつる地元の神社・上社である。 」
と、「地元の神と別格」という線引きを感じます。
産土神・国津神は、神田を奉献して神宮に認められるというスタンダードがあります。
度会氏はそことは別格だったのでしょう。
外宮=度会氏の祭祀で、
皇大神宮(内宮)とはやはり別だという認識が
当時は根底でなされていたのかもしれません。
そして、伊勢での地元の信仰はやはり
「牛頭大王」(=スサノオ命)なのですよね。
上社は牛頭社の面影を残す「牛頭夫婦楠」があります。
こちらの社宝は獅子頭1頭と太刀1振の2点で、
1月15日に例祭があり、その宝物の獅子頭が公開され、
獅子舞も奉納されます。
そして、太刀は、享保6年(1721年)に寄進とのこと。
出ましたね、また享保年間の動きです。
内宮摂社の多くに享保年間に紀州藩から禁殺生の石が奉納されているのです。
これももしかして、摂社絡みの奉納かと
穿った見方をついついしたくなってしまうのでした。
(2019.10.3、参拝)