伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【125社めぐり】 外宮 摂社 田上大水神社 ・ 田上大水御前神社

 外宮 摂社 田上大水神社  (たのえおおみずじんじゃ)

御祭神 小事神主 (おごとかんぬし)

 

  同 摂社 田上大水御前神社  (たのえおおみずみまえじんじゃ)

 御祭神 宮子 (みやこ)

 

所在地;三重県伊勢市藤里町字大丸679

 

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外宮の境内(敷地内)のすぐ近くに鎮座します。

コースとしては、

度会大国比売神社→300mほど→山末神社→100メートルほど→田上神社

といったロケーションです。

 

勢田川に注ぐ朝川のそばに建ち、

石段を上り、川を見下ろす丘の上にあります。

 

かつては水田が広がる中に神社の森がこんもりと生い茂る風景だったといいます。

鎮座地の丘は濠に囲まれ、「車塚一号墳」という前方後円墳だとされます。

御所車に形が似ていることから「車塚」と呼ばれるそうですが、

古墳は原形をとどめていません。

そこから「車塚」、

また地名から「丸山さん」とも呼ばれているそうです。

田上大水神社 - Wikipedia

 

付近には宮崎氏神社跡や山宮祭場跡など

度会氏にまつわる史跡があります。

 

また、度会の祖とされる度会国御神社と縁の

世義寺(現在の)とも直線距離としては近いです。

 

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車塚一号墳は、

「周囲20間、 高さ3間の丘、 まわりに濠がある。

 古くから円墳であるといわれる。 中世までは石槨が見られたという。

 (田上大水神社)」

という説もありますが、

 

「『神郡名勝誌』に

 「此の社域、前ハ、方に、後は圓く、宛 然たる陵墓の形をなせり。」

 とあることなどから、

 北が後圓部、南が前方部の前方後圓墳であつたと了解される。

 ま た社殿の裏に横穴式石室があると考へられ、

 平安末の奥書 がある『高倉蔵等秘抄』に石窟記事があり、

 石室が開いて ゐたやうである。

 (『式内調査報告』)」

豊受大神宮摂社 田上大水神社


「墳丘は鍵穴のような形をした日本独特な形式で前方後円墳と呼ばれています。

 墳丘の規模についてはいくつかの点が墳丘大破のため不明ですが、

 後円部の径20m、高さ6mで、墳丘全長は33mとなっています。」

「発掘調査が1985年に行われています。 
 後円部頂にある埋葬施設は横穴式石室となっています。
  西方向に石室が開口しております。」

古墳探訪 車塚第一古墳

 

という情報の方が信憑性が高く、前方後円墳だと思われます。

 

すぐ近くの外宮境内の高倉山にも古墳があり、

そちらが円墳と言われるので、

こちらも円墳かとされたのかもしれません。

(高倉山には山末神社がありますね。)

 

高倉山古墳の被葬者は度会氏との説もあるものの未詳ですが、

この車塚古墳の被葬者は度会氏だと思われますね。

それは、この田上大水神社の御祭神から明らかです。

 

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社殿を見ると、御垣内にL字に社がふたつ建っています。

正面を向くのが、田上大水神社

東面しているのが、田上大水御前神社です。

 

田上大水神社の御祭神は

「度会神主四門の祖・小事神主(おごとかんぬし)。」

田上大水御前神社の御祭神は

田上大水神社祭神の小事神主の女(むすめ)で宮子(みやこ)。」

とされています。(神宮会館HP)

 

「度会神主四門って何?」

と思いますよね。

これは度会氏が氏族の中で枝分かれし、

その中で神主に就くことの出来た家のことでしょう。

 

また、宮子については斎宮に仕えたようで、

「欽明朝に内親王の御杖代に立ち天皇安穏・人民快楽となったので父小事の霊を

 度会宮の郡内「田上大水社」に祀るとともに宮子の霊も同所に祀った」

度会氏・荒木田氏考

と言います。

 

欽明朝の斎宮磐隈皇女です。

磐隈皇女の母は蘇我稲目(馬子の父)の娘の堅塩姫です。

同母の兄に聖徳太子の父・橘豊日皇子(用明天皇)、

妹に額田部皇女(推古天皇)がいます。

またの名を「夢皇女」ともいったとされます。

 

ところが、『二初太神宮例文』や『斎宮記』には

宮子内親王」の名もあり、注記に

「太神主小事女 在任廿九年」

と記されています。

 

磐隈皇女は茨城皇子(馬木王。欽明天皇蘇我稲目の娘・小姉君の子)

と関係をもち
(無理矢理なのか、恋人であったかは謎)

解任されてしまうのですが、

その後に宮子が斎宮を勤めたようです。

 

磐隈皇女の御杖代だった宮子が不慮の事態からその後任となったけれど、

斎宮は皇女(内親王)でなければならなかったので、そう記されたか

天皇の養女にされたのかもしれませんね。

 

磐隈皇女は

古事記には、伊勢に向かったことは記されておらず、

 伊勢ではなく三輪山の麓で日神を祀っていたとも考えられています」

斎王紹介その1/明和町ホームページ

との説もありますので、

もしかすると当初から宮子が伊勢で斎宮の御杖代として祭祀を勤めた可能性もありますね。

 

欽明天皇の在位は539年 ~ 571年の32年間とされていますので、
そのうちの29年間を宮子内親王斎宮を勤めたならば、

欽明天皇の御代のほとんどです。

 

日本書紀』の磐隈皇女の説明に

「初侍祀伊勢大神 後座奸皇子茨城解」記されているので、

その間が1年ほどだったか、

また三輪で潔斎している間に皇子と関係をもったのかもしれませんが、

とにかく、宮子が欽明天皇の御代の実質的な斎宮だったようで、

これはかなり特殊なことです。

 

それ故に神として祀られたのではないでしょうか。

 

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神主の祖となる小事主と斎宮・宮子を埋葬し祀ったのが、

この田上大水神社・御前神社だったのではないかと思います。

 

「この神社はその田上大水神社の社名から見て、

 元来は豊宮崎神田の水の神であつたと思われ、

 この地に度会神主の一族が蔓延するに至つた後、

この地に度会氏の祖先の墓墳をいとなみ、

それがやがて度会神主の祖神信仰に移つていつたものと思われる。」

田上大水神社

との説もありますが、

神宮の祭祀=稲の祭祀・豊作祈願の祭祀です。

言うまでもなく、それは水の神に繋がりますし、

この一帯は豊かな水田地帯だったので

度会氏の祭祀=豊作祈願の祭祀であったと思われます。

 

ですので、度会氏が崇めた田上神を元々は祀ってここでも祭祀を行っていたのかもしれませんが、

田を見渡せる丘に度会神主の祖と斎宮の御杖代を勤めた宮子ひめの墳墓を作ることで

豊作を祈願する場へとなっていったのではないでしょうか。

 

『止由気宮儀式帳』では「田上神社」と記されるので、

元来は「田の上」=田の上方にある丘の社で、

むしろ「大水」=水神は、後からついてきたのではないかと思います。

 

度会大国玉比売神社を昨日考察して

石段の上の社がふたつ建つスタイルが古来のものだと推定しましたが、

こちらも石段を上がった社の形式は等しいので、やはり古代の姿を残しているのでは?と思います。

高い場所から見下ろすのは、自分の領地領民を「国見」して安堵するその地の権力者の祭祀にも繋がります。

度会神主家の祖が墳墓からも国見が出来るように小高い丘に古墳が作られたのではないでしょうか?

 

この田上大水神社も中世以降は長らく中絶となり、

承応元年(1652)豊受大神宮権禰宜出口(度会)延良が

度会四門の氏人を勧誘して再興したといいますが、

所在地は古来変らないようです。

 

明治までは度会四門の氏人が社殿の造替をしていたそうで、

摂社5位6位という高位にあるのは

度会神主家との縁故の深さにあると思われます。

 

古墳の件からも、こちらへは純粋に度会神主家のお墓参り…ととらえてもいいかと、個人的には思います。

神宮の祭祀のお勤めに感謝して参拝したいですね。

 

(2019.8.24.参拝)

 


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