伊勢河崎ときどき古民家

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倭姫考察⑩ヤマトヒメとヤマトタケルと「妹(いも)の力」

倭姫について、『古事記』には御杖代としての行程が書かれていないことについては触れましたが

古事記』の他の項で倭姫について記述があるのを御存知ですよね?

 

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それは「景行天皇記」の「小碓命の征西」と「小碓命の東伐」の場面です。

 

小碓命って誰?って思われる方もいらっしゃいますよね?
小碓命とは、倭健命の別名(幼名、諱)です。

 

景行天皇は、倭姫の同母兄で、

小碓命はその子ですから、甥にあたります。

 

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ヤンチャ小僧だった小碓命は兄の大碓命を殺してしまいます。

推定15,6歳。

それを恐れた父の景行天皇は、征西を命じます。

その時、倭姫が登場します。

 

「ここに小碓命そのをば倭比売命の御衣御裳を給はり、剣を御懐に納れて幸行でましき。」

 

そしてその倭姫の装束を着て女装した小碓命熊襲兄健を剣で刺し殺し、弟健も服従させてから殺します。

この時弟健が「ここから西に我ら兄弟より強いものはいない。だから大倭国に我らより強いものはいない。

あなたに倭健御子の名を与え、称えましょう」と言い、これ以降「倭健」と呼ばれることとなります。

 

そして倭健は帰京するのですが、景行天皇は今度は東伐を命じます。

この時にまた倭姫が登場します。

 

「故、命を受けて罷り行でましし時、伊勢の大御神宮に参入りて、神の朝廷を拝みて

すなはちそのをば倭比売命に白したまひらくは」

と、伊勢神宮の倭姫の元を訪れているのです。

 

倭健は倭姫に

「(意訳)天皇は俺に死ねというのか。征西から帰ったばかりなのに今度は東を平らげろとは…」と

泣きながら愚痴をこぼします。

きっとそれを、よしよしと宥めたであろう倭姫は

「倭比売命、草薙剣を賜ひ、また御袋を賜ひて

 『もし急のことあらば、この袋の口を解きたまへ』と詔りたまひき。」

 

と、御神刀の草薙剣を授けるのです。

袋には火打ち石と火打ち金が入っていて、相模国で焼き討ちにあった倭健は

まず剣で草を薙ぎ払い、その後逆に火攻めにします。

 

征西も東伐も倭姫の仕える伊勢の大神の御神徳で勝てたように感じますよね。

ところが、少々違うのです。


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この後、倭健は妻・弟橘媛によって海神を鎮められ、

美夜受媛を妻にしたあとに息吹山の神を平らげに向かっています。

 

この倭健もそうですし、歴代の天皇も妻の力を重要なものといています。

これを「妹の力」と呼びます。
この「妹」とは、いもうとではなく、妻のことです。
古代は愛しい人や妻のことを「吾が妹」と呼び、

旦那様のことは「背子、背の君」などどと呼び、

夫婦を「妹背」と称しました。

 

つまり、古代に於いての婚礼はただの政略結婚ではなく、

妹の力=女性の持つ霊力の助けを得ることでした。

 

ですので、倭健は伊勢大神の御神徳を得るために伊勢に向かったのではなく、

倭姫の巫女としての力を頼みに行ったのです。

 

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もうひとつ気になるのが、倭健が息吹山を平定出来ずに疲労困憊で三重で死ぬことです。

これはもしかすると本当は美夜受媛とは結婚していなかったのではないかと思うのです。

まず、わざわざ美夜受媛に「月経が来た」と言っていること。

近世まで女性の月のものは「穢れ」とされていました。

ですので、わざわざ月経の時に初夜を迎えることに疑問があります。

 

そしてなぜわざわざ息吹山に向かう時に草薙剣をここに置いていくのか?

実は月の障りがあって初夜を迎えられず、

その代わりに草薙剣を姫の元に託すのではないでしょうか。

ですから、妹の力がなく、息吹山で遭難してしまうのです。

 

この根拠はもうひとつあり、倭健が死の前に詠んだ歌です。

 

「孃子(をとめ)の 床の邊に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや」

 

明らかに美夜受媛と草薙剣について詠っていますが、この「孃」の字に注したいのです。

「おとめ」には色々な字が当てはめられますが、この「孃」には「未婚の女性」という意味があるのです。

この歌は美夜受媛の元に戻って婚姻を結びたかった思いを詠っているのではないでしょうか。

「はや」は強い詠嘆です。

妹の力と草薙剣の力があれば…という歌ではないかと思うのです。

 

また『古事記』ではストーリー上でも

草薙剣を持たなくなり、倭健が弱体化したように描かれていますが

草薙剣に込めた倭姫の力を失くしたことの暗喩ではないかと感じるのです。

 

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さて。

同じく『古事記』に『日本書紀』以上に丁寧に語られてるお話で

垂仁天皇記」の「沙本比古(狭穂比古)の反逆」があります。

このお話、実はクーデターのために妹・沙本比売(狭穂媛)を沙本比古が天皇から奪うお話なのです。
沙本比売の霊力(妹の力)を奪い合っているのですね。

沙本比古と沙本比売は同母兄妹とされていますが、その名から明らかにペアの存在です。
兄は一人では力を発揮できないのです。

 

これは少し卑弥呼の話にも通じますね。
古来、天下を治めるには巫女の力が大事にされていて
妻問い―妹を得ることはその力を得ることだったのです。

 

お気付きの方も多いと思いますが、
沙本比古と沙本比売と同様に、

倭健と倭姫もペアとなる呼称になっていますよね。

 

古事記』では「をば」に「姨」の字が当てられていますが、

この字には、「おば」の他に「いもと」「いもうと」の読み方もあるのです。
また、妻の姉妹をさすこともあるようですが、
「おば」より「いもと」の方が今でも辞書の意味では先に出て来ます。

 

もしかするとこのヤマトヒメはあの倭姫とは別人?
それとも、倭媛は倭健の妻だった???
(古代は異母兄妹婚や、伯母甥・叔父姪婚はよく見られます)

 

倭健のお話は国史とされる『日本書紀』と記載が異なることなどから
ヤマトタケルはフィクションであるという説ありますよね。

だとしますと、妹の力を与えたヤマトヒメとは?となってきます。

明日は「ヤマトヒメ」のその名の秘密に迫りたいと思います。