伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

倭姫考察⑦倭姫伝説の地へ行ってみた~水屋神社編

昨日も少々ご紹介しました松阪の飯高にあります「水屋神社」さんについて

今日はお話していこうと思います。

 

 

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櫛田川の清流と国道に挟まれて建つ水屋神社はその名の通り、水と縁の深い神社です。

 

御祭神は非常に多く、いくつかの神社が合祀されています。

「千余年前、大和の春日大社の安在所として天児屋根命を奉斎す。

その後、大化4年(648)奈良の三笠山から素盞鳴命、龍神姫命を勧請す。」

とHPの御由緒書きにあります。

 

境内の看板からも推測して、

下表の左が元々の御祭神や昔からの縁の神様では?と勝手分けてみました。

 

天児屋根命

素盞鳴尊

龍神姫命

櫛稲田姫命

蘇民将来

                 

天照大神

誉田別尊

大山祇神

宇賀之御魂神

加具土神

菅原天神

 

更にHPには、

神功皇后武内宿禰豊玉姫命宗像三女神多紀理姫命市杵島姫命多岐津姫命

と、八幡様に縁の神様が御祭神に記されています。

 

これは、源義経が文治の頃吉野の山を出て伊勢の神宮へ参詣の途次に建立した八幡社を
明治四十年に合祀している所以かと思います。

 

更にその中に、「皇大神宮儀式帳」にも登場する飯高氏の祖先神の乙加豆知命がいるのです。

作滝の滝野神社に祀られていたものの、明治四十年に水屋神社に合祀されたと言われます。
(昨日一昨日の記事で触れましたので詳細は省きます)

 

ですので、この水屋神社もやはり「倭姫に縁のある場所」といえますよね。

 

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さて、この水屋神社さんの謂れとして面白いのがこの神話です。

 

HPの御由緒には

垂仁天皇25年(紀元前51年)天照大神が当地に巡幸された際、

 この地に鎮座しておられた春日の神と議って川中の巨石を以って伊勢・大和両国の境とした。」

と記されていまして、国分け神話として非常に興味深いものがあります。

 

地元に残る説話としては、旧飯高町のHPにはこのように載っていたそうです。

 

 むかしむかし、ある日のこと。天照大神(あまてらすおおみかみ)が白馬に乗って旅をしていました。

飯高町の赤桶(あこう)にさしかかった時、「誰か、この地の国境を知るものはいないか?」とお尋ねになりました。
 すると、水屋の森から春日の神でもある天児屋根命(あめのこやねのみこと)が現れ、「この下の“堺ヶ瀬” が伊勢と大和の両国の堺でございます。」と答えられました。

ところが大神はその答えに満足されず「この堺はちょっとおかしい」とおっしゃられ、石を川に投げ入れて、波の止まるところを国境と決めることになりました。
 大神はそばにあった大石を軽々と持ち上げ礫のように川の中へ投げ込まれました。

川水は滝のように流れ落ち、後にそのあたり一帯は「滝野」と呼ばれるようになりました。

また落下した水は川上へ流れ込み、その波の様子からそれぞれの地名を「加波(かば)」の里、「波瀬(はぜ)」の里、「舟戸(ふなと)」の里、そして波は止まったところを「波留(はる)」と名付けました。

波は高見山にまで達し、大神はこの日から高見山を伊勢と大和両国の国境とするとお決めになりました。

 

このように、日本神話でよく見られる「国名の成り立ち」も語られているのが興味深いですね。

 

また、このことから春日大社興福寺)の神領伊勢神宮(内宮)の神領をここで分けたのでは?

という説もあるようです。

水屋神社HPにも

「この話は、隣接する滝の郷が神宮内宮の御厨であるという「神鳳抄」の記事を考えあわせると、

 当社が興福寺領の西端を、滝野郷が内宮領の東端を示すものとして注目される。」

と語られています。

 

これは春日大社藤原氏、内宮を天皇家と考えますと

その領地を区分けしたと政治的に捉えることができるかもしれません。

 

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このように、春日大社と縁の深い水屋神社さんは、今も御神水春日大社に奉納しています。

社殿から離れたところに、「閼伽桶の井」という井戸があります。

この井戸からくみ上げた神水を入れた二振りの閼伽桶を水御輿に載せ渡御しているそうです。

 

貞観元年(859)11月9日より春日大社への奉納を始め、

天正5年(1577)の兵乱で中絶したものの、細々ながら神水はその後も奉納され、

皇紀2600年(昭和15年)の奉祝を契機にまた大々的に行われるようになったそうです。

 

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現在この地は「赤桶」という名で表記されていますが、「閼伽桶」との関係も気になりますよね。

水屋神社は、

和銅3年(710)興福寺東門院領「閼伽桶の庄」となり、

慶長5年(1600)関ヶ原合戦以降伊勢領となったそうです。

 

この興福寺領だった時代に仏教用語の「閼伽」あてはめるようになったのでしょうか。

 

ちなみに、閼伽桶とは…

「浄水を井泉から汲んでくるために用いられる小型の手桶。

浄水を汲んだ後の閼伽桶は閼伽棚に置かれ、そこから六器(ろっき)に移され壇上に捧げられた。

浄水は煩悩を洗い雪ぎ、諸尊を供養するために献じられるもので、香や華、燈火とともに重視された。」

そうです。
銅閼伽桶 文化遺産オンラインより抜粋)

 

「諸尊を供養」というワードがちょっと心に残りますね。

この地の国分け神話を領地争いの話=戦乱があったと捉える方もいるので、そう考えますと

制圧した相手方の怨霊封じの供養が頭を過ぎってしまいます。

 

それとも神仏習合の世に何となく語呂合せをしただけで意味はないのかもしれません。

 

もうひとつ興味深いのは、

社殿は三殿並立朱塗りの春日造だったそうです。

それを明治25年に現在の神明造に改められたとHPに書かれていました。

やはり興福寺領だった時代には、神仏習合、八幡様、そういった武家の色が濃かったのですね。

 

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お話を倭姫に戻したいのですが、そうなのです。
この国分けの伝説には倭姫は登場しないのです。

 

ですが、1つ面白いのは

国分け伝説でアマテラス大神が乗っているのが、白馬。

姿見の池伝説で倭姫が乗っていたのも、白馬。

白馬といえば、月夜見宮の神が白馬で外宮の神の元へ通うお話もあります。
(この神話には諸説ありますので、また後日まとめます)

 

「白馬に乗った貴人」が伊勢界隈にいたとして、その方の正体とは…?

 

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そして、久具都姫神社と同じく、ここにも大きな楠が立っています。
樹齢は1000年とか…。
そして境内には更に大きな楠の幹の一部が飾られています。

 

この木々に話を聞けたら…という気分にまたもや…。

 

 

 * 水屋神社さんHPを大変参考にさせていただきました  水屋神社HP  

 

 * 一部写真は祭事に参加させていただいた時に撮したものになります。

 

 

数ある伊勢界隈の神社さんの中でも、

私はこの水屋神社さんは特に大好きなんです。

是非とも皆様もお参りに…。