御師のお話④確立編~営業マンから大企業のトップへの変容
前回は御師の誕生についてお話しましたが、
では、御師がどのように確立し繁栄していったのか?について
今回はお話してみようと思います。
「伊勢神宮だけにある特別なことってなぁに?」と問えば、
「式年遷宮」とお答えの方も多いと思います。
20年に一度神様のおわします本殿や身の回り品を全て新しくする一大イベントです。
天武天皇・持統天皇から続く古式ゆかしき行事ですが、莫大なお金とマンパワーが必要になります。
平安期までは皇室や貴族、荘園からの上がりなどで賄えていたのでは?と推察しますが、
鎌倉期に入り、皇族も貴族も武士に利権を奪われてからは費用が足りなくなったと思われます。
そこで全国の御厨(神宮の荘園のようなもの)と神宮を行き来していた神官(御師の元)が
諸国を廻り、伊勢の信仰を説いて役夫工米を徴収することとなります。
いわば、造営大使・役夫工徴収大使の役割をするのです。
そのお礼に崇敬者に代わり祈祷を行い、その印しとして後に「神宮大麻」と呼ばれる幣を授けます。
これが後に、御神楽料として初穂料を御師が徴収するシステムへと変容し、
御師(派遣神官)と檀那(崇敬者)の関係が成立していきます。
(檀那は仏教で言う檀家さんですね)
当時この派遣神官は、神宮の権禰宜(副長官)が任務についていました。
最も尊い身である正禰宜(長官)は宮川を渡って外に出ることに制約があったからです。
この権禰宜も位は高く「五位」を授けられています。
「五位の公達」のことは平安時代から「大夫の君」と呼ばれています。
そのことから、御師のことを「○○太夫」と呼ぶようになったと言われます。
この御師の制度は、どんどんシステム化され、
どの御師がどの村・集落を担当するかが定められていきます。
こうして後に「伊勢講」の仕組みも仕上がっていくのですが、
伊勢講についてはまた後日…。
御師を営業マンとして捉えてみましょう。
やり手御師になりますと、どんどん担当の村落を増やしていきますよね。
そうなりますと、手が足りない!
そこで御師の代行と言いますか、手下として働く子分御師が誕生します。
それが「手代」と呼ばれる人たちです。
御師は営業部長になり、デスクに陣取り、部下をあちこちに派遣します。
部下が有能ですと、またその仲間もまた増えて行きます。
こうして御師制度はビッグビジネスへと転じて行くのです。
そして最盛期(江戸時代)を迎えますと、
宇治(内宮)山田(外宮)合わせて800家とも言われるほどになります。
ここまでの規模になりますと、会社と同じく組織化が必要ですよね。
その階級も厳しく仕分けされていきました。
2.神宮家(荒木田・度会の正禰宜《神官のトップ》)
3.会合年寄家(宇治) 三方年寄家(山田)
4.町年寄家(山田)・宮司役人・羽書役人(山田)
5.平師職(2・3の家来格←商いをする人もいた)
6.殿原(御師手代←職人・商人の苗字のある人)
7.仲間(職人・商人・農夫の苗字のないもの)
このうち2~5迄が御師の家格とされ、
それぞれが大会社の社長のようになっています。
6・7の殿原・仲間は、謂わば社員。御師の家来格でその庇護下の人たちです。
江戸時代には解体されていた商工会システムである「座」ですが、
伊勢の御師はこの座の元締めをしていた人もありました。
綿屋大夫の綿座、松室与一大夫の米座など。
殿原・仲間は、御師の家来になるか座に運上金を納めるかをしていた人たちで
商工業者として独立できない人たちでもありました。
御師は他にも、市場を采配していたり、
(山田八日市場町「上座蛭子社」を幸福大和家が采配)
土倉(質屋)を営んでいたり、
(久保倉、榎倉など)
塗師(うるし職人)の棟梁をしていたり、
(大主家)
などなど…
商工業方面にも通じていましたので、
江戸期に座が解体された後も大きな特権を持つことが出来ました。
長くなってしまいましたので、今回はここまで…。
御師がどれほどの利権を持っていたかはまた次回に続きます。
*歴史的見知としては嶋田兼次著『伊勢商人』を参考にさせていただきましたが
私の私見も多々含まれますことを御了承くださいませ。