伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

御師のお話③誕生編~御師って元々どんな人たち?

伊勢神宮御師の誕生は平安時代だと言われます。

平安時代といえば貴族(公家)文化ですよね。
雅で太平というイメージですが、現在のように政治家(公達)たちの利権争いが激しい時代でもありました。
 

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平安時代の神社と貴族(公達)との結びつきといえば、中学校で習う「荘園」と「寄進」です。
中高の歴史の授業ではさらっと習いますが、実はこの「荘園制度」はかなり複雑。
私は大学の日本史の授業で延々と学びましたが、学べば学ぶ程に複雑で頭を悩まさせられました。

ですので、さらっと御説明しますと…

「荘園」と言えば「不輸不入の権」という言葉を覚えていらっしゃる方も多いと思います。

不輸は税金免除、不入は役人の立ち入り禁止を指します。
有力農民たちは「不輸の権」を持つ寺社や有力貴族に土地を寄進することによって脱税をしていました。
この土地を「荘園」と呼びますよね。


不輸の権利は平安初期までは寺社管轄の荘園に限られていました。
そこでこぞって有力農民は勿論、貴族たちも自分の荘園を寺社に寄進したのです。
ところが、脱税は権力者の常。有力貴族へ荘園を寄進しても「不輸」とされるようになります。
それまで寄進された荘園からの上がりでほくほくだった寺社はどうしたかというと、
台頭してきた武士たちに目を付けます。

その頃の神宮にある事件が起こります。
平安中期の冷泉天皇の安和2年。そう、源高明が失脚し藤原氏の栄華の幕開けとなる「安和の変」です。
この時、大神宮司、仲理が私祈祷をしたという話があります。
これ以降神宮は「私祈祷禁止」が申し付けられます。

天皇以外が祈祷を出来ないということは、貴族からの祈祷料は入りませんから
荘園からの上がり以外に収入源はなくなります。
それなのに貴族も不輸不入の権を得たのですから、寄進荘園も減ったと思われます。
そこで神宮は武士に伊勢の信仰を説き「御厨」「御園」と呼ばれる武士からの寄進荘園を得るという作戦に出たのです。

この武士に信仰を説いたのが御師のはじまり…と言われています。

 

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この時代の武士は、元々は皇族が源平の苗字を戴いた人たちです。
ですので、鎌倉室町期の武士よりはかなり貴族寄りでしたので、私有地も持っていますし、
公家が私腹を肥やす様も見ています。(平清盛藤原氏と同じ外孫政治を試みたように)
そして、公家よりも立場を上げたい=公家に寄進する立場から脱却したいという思いもあったと思います。
(公家に寄進をしては、公家も儲かってしまいますからね)

まさにナイスタイミングで神宮にとっても武士にとってもウィンウィンなのです。

 

そして志向も思考も嗜好も貴族的な面が強かったと思いますので、
伊勢の信仰に魅せられる武士が多かったのも頷けますね。

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大治5年(1130年)に平経繁が、皇大神宮権禰宜・荒木田延明に
御厨として下総の国相馬郡の私有地を寄進したのが最古の記録のようです。

元々「御厨」とは、神様に供える品々を調進、収納する倉庫を指しますが

この頃には、供神物を生産する土地という意味でも使われていたと思われます。

また、寄進者を紹介した神官を「口入神官」と言い、貢物や祈祷料を個人の収入としていました。

口入神官が職業としての伊勢御師の元祖だと言って良いかと思います。

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こうして「御厨」が全国各地に広がり出すと、
下級神官が伊勢と御厨を往復して供神物を取り立てるようになります。

在地の農民との接触も深まって行ったことでしょう。

 

もしかするとこの辺りから、全国各地の農村民にも「神宮」というワードが
認識され始めたのかもしれません。

長くなりましたが、まずは恩師の誕生について見て来ました。

まだまだ御師の話は続きます。
おつきあいくださいませ。


*歴史的見地として「伊勢商人」嶋田兼次著を参考にさせていただきました。
*荘園についてなどは私個人の見解も含まれますので、御了承くださいませ。