河崎の成り立ち①~平安から戦国時代編~
今日は河崎の町の成り立ちについて簡単にお話してみたいと思います。
長くなってしまうので、その①とさせていただきます。
河崎には昔から文化人が多く、
今も学者さんや地元の方など河崎の歴史について研究されている方が多いので
町にいると、色々なことを教えてもらえてとても勉強になります。
私はまだまだまだまだひよっこですので、本当にさらりとご説明しますね。
(↑河崎古地図。河崎商人館蔵)
河崎の町は、平安時代には「河辺の里」と呼ばれていました。
「里」というからには小さいながらの集落がもうあったことは想像できますね。
「川辺の里」=川の近くの里が、「河崎」=川の港の町へと発展していったわけです。
「河崎」という名前で呼ばれはじめたのは、近世以降と見られています。
『勢陽五鈴遺響』という文献には「河崎ノ名ハ天正年中ヨリ既ニ称され…」と記されています。
河崎の町の起こりとしては、
1400年代後半に北条氏の遺臣が「河崎氏」を名乗り、開発に着手したという話があります。
伊勢で北条氏とはちょっと「?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
伊勢市の山の方には「平家の落人の里」という場所もあるんです。
立地的にも環境的にも伊勢は逃げやすく落ち延びやすかったのかもしれませんね(私見)。
(このお話はまた今度)
戦国時代の河崎には、実はこんな逸話もあります。
「信長の家臣、滝川一益が河崎に鉄砲を借りに来た」
というものです。
(余談。一益本人が借りに来てたら更にムネアツですが、
多分その配下たちが来たのかなと推察します。)
最初は河崎の研究者さんたちも眉唾だったそうですが、
最近になってそれを裏付ける古文書が発見されてしまったのです!
「鉄砲とお金ありがとね」的なお礼状です。
信長と紀伊半島といえば、そう、一向宗門徒と戦った長島の合戦ですね。
その時に鉄砲を河崎まで借りに来ているんです。
つまり、その頃には鉄砲が河崎に沢山あったということですね。
なぜその情報が信長配下に伝わったのかはまだ謎ですが、
もしかしたら、河崎を流れる勢田川の河口である大湊の人あたりが教えたのでは?
と推察する人もいます。
だとしたら、地元では
「河崎に鉄砲が武士に貸せるほど沢山ある」
と知られていたのですよね。
この鉄砲、ここで作られていたとか商われていたと考えがちですが、
実は河崎の自衛のために使われていたのです。
当時既に勢田川を使った水運で栄えていた河崎には、環濠(お堀)が作られ
夜は出入りの門を閉めて町の安全を取り締まっていたそうです。
そこ登場するのが「鉄砲」。
既に刀や弓矢などではなく、鉄砲を持っていた!
どれだけ栄えていたかが伺えますね。
用がないと入れなセキュリティと富豪。
もしくは、欧州の城下町?
敵が入るのを防ぐために門があるイメージ。
とにかく堺の商人と同レベルで稼いでいたとしても不思議ではありません。
信長の活躍には、実は河崎も関わっていたとは、、、。
河崎、本当におそろしい子!(月影先生)という思いです。
ですが、こういった河崎の歴史は地元の伊勢でも知られていません。
伊勢には郷土資料館がないから、というのも理由のひとつとして上げられますが
神宮の歴史が濃すぎてなりをひそめてしまっている、というのが実際では?と思います。
紀伊半島自体が実は歴史的に面白いのですが、関東民的には未知のゾーンです。
まだこのように古文書があちこちに残っているうちに、色々究明されることを期待します!