伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【伊勢神宮】外宮―豊受大神宮―創始のお話

前回は神宮内宮の創始についてお話しました。
今日は外宮の創始についてお話したいと思います。

 

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まず、伊勢神宮外宮の正式名称はご存知ですか?
豊受大神宮」といいます。

「豊受」というのはご祭神に因むもので、
そのご祭神の名は「豊受姫命」と言います。

漢字で書きますと…【豊受姫


ですが、ほかにもこのような表記をされることもあります。


【豊宇気毘売神・登由宇気神・等由気太神・止与宇可乃売神】


読み方も「とゆうけ」とされることもあり、
神社名も「とゆうけだいじんぐう」と読むこともあります。

 

神宮においてトヨウケヒメ天照大御神のお食事を司る御饌都神であり、
衣食住、産業の守り神とされています。

 

ところが、トヨウケヒメは実は伊勢出身の神様ではなく、
しかもこの地に鎮座ましましたのも、
内宮の遷座からおよそ500年近く経ってからだとされています。

どのような経緯で、トヨウケヒメはこの外宮にお越しになったのでしょうか?

 

それは、
雄略天皇22年(487年・皇紀1138年)のこととされています。

突如アマテラス大神が
「自分ひとりじゃ食事とかも面倒なんですけど~。
 身のまわりのことかしてくれる神、呼んできて~」と
天皇の夢に現れて語ったのです。

外宮の歴史を伝える『止由気宮儀式帳』『豊受皇太神御鎮座本紀』によりますと、
「一所のみ坐せば甚苦し」
「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、
丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神、等由気大神を、我許もが」
とアマテラス大神はお告げになったと伝えています。

 

雄略天皇はこのお告げの通り、等由気大神を丹波国からお呼びになり、
度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始めらた、といいます。

 

この度会の山田原が、現在の伊勢の宇治山田の辺り、
つまり外宮だと考えられています。

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なんと、トヨウケヒメの出身地は丹後・現在の京都府なのですね。

ではこのアマテラス大神からご指名を受けた豊受姫とはどんな神様なのでしょう。


古事記』では
伊邪那美命が火の神カグツチを生んで病に伏した後に生まれた神・
和久産巣日(わくむすび)の子とされています。
ワクムスビは五穀と蚕・桑を生んだ神といわれ、
トヨウケヒメも食物・穀物の神とされています。
(*ワクムスビは「日本書紀」ではカグツチの子とされています。)

 

ところが、このような話も伝わります。
丹後国風土記』に、
丹波郡比治の里の比治山にある真奈井で水浴びをしていた天女のうちの一人が
羽衣を隠され帰れなくなった
という、
いわゆる「羽衣伝説」が語られています。
そしてその天女こそが、
豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)であるというのです。

 

この伝説に登場する「眞名井」は、
丹後国風土記』に記されている奈具神社であるという説、
また同じく丹後にある籠神社(このじんじゃ)の奥宮の眞名井神社であるという説などがあります。

 

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そしてこの「眞名井」という名は
アマテラス大神とスサノオ命がうけい・誓約を交わした場所と同じです。
これもまた、いわくありげですよね。

(眞名井は井戸の美称で「美しい井戸」という意味だという説もありますが…)

 

なぜわざわざ丹波の国から豊受姫を招いたのか…
諸説ありますが、実は今なおはっきりとはわかっていないのです。

また外宮の創始についても国史である『日本書紀』や『古事記』にその記述はありません。
まさに、ミステリー。


ここからはちょっと神宮トリビアです。


外宮に上御井神社という場所があるのをご存じですか?
実はここは一般人は参拝ができない場所なのですが、
神様のお食事や神事につかう水を汲む、特別な井戸があるのです。
この井戸が先ほどお話しました眞名井と関係があるとされています。

この御井は忍穂井(おしほい)と称するそうで、

「古伝によると天孫降臨の際、
 高天原天忍穂の長井の水を、
 丹後国比治の真奈井を経て、
 豊受大神宮ご鎮座の折、
 この御井に移し奉ったもの」と神宮会館のHPで語られています。

また、天の井戸と繋がっているという伝承や、
アマテラス大神の孫で高天原からこの葦原の中つ国に降臨したというニニギ命が掘った
という伝承もあるそうです。



先ほどお話しました眞名井とされる丹後の国の籠神社の奥宮・真奈井神社には
このように伝わっています。

「この水は籠神社海部家(あまべけ)三代目の天村雲命が
 神々が使われる「天の眞名井の水」を黄金の鉢に入れ、
 天上より持ち降った御神水です。

 天村雲命はその水を初めに日向の高千穂の井戸に遷し、
 次に当社奥宮の眞名井原の地にある井戸に遷しました。

 その後、倭姫命によって伊勢神宮外宮にある
 上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています。」

 

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倭姫の生きていたころにはまだ外宮はないはずなので、
色々と想像力を刺激される社伝ですよね。

 

天村雲命は、葦原中国の水質がよくないため,
天照大神の命をうけ,改良したという伝説もあります。

また、
外宮で代々神主を務めた度会氏の祖先神ともされています。

 

つまり、アマタラス大神とスサノオ命が誓約をした天の眞名井の水を
ニニギ命もしくは天村雲命が高天原から降臨するときに持って来て
降臨の地とされる日向の高千穂の井戸に移し、
更に丹波の眞名井に移し、
丹波から更に伊勢神宮・外宮の上御井に移した、ということになりますね。

 *天の眞名井の水とは、高天原の天忍石(あめのおしいわ)の長井の水である

  という説もあります。

  http://iselib.city.ise.mie.jp/images/furusato/2017nendo/18-1.pdf


天村雲命の子孫は丹波の眞名井も伊勢の上御井
どちらも代々守ってきたということにもなります。

(名前的には出雲とも関係が深そうな神ではありますが)

 

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更に、私が地元の方に教えてもらった伝承があります。
それは

「この上御井神社の水が枯れたら天変地異が起こる」

というものです。

御井神社の井戸の水は宮川が水源という説があります。
宮川は氾濫が多く水量が常にありますから、
これが枯れたとしたらまさに天変地異レベルの一大事です。


また、外宮内にある高倉山が水源…という説もあるようです。
高倉山のふもとにあたる山末神社からは水が涌き出ていますので、この説も有力ですね。

 

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御井に異変が生じた際は朝廷に使いを出し祈謝したとも言われるそうですが、
「未だ枯れたことはない」といわれています。

ただし、その万が一の時には
外宮のもうひとつの井戸・下御井神社の水をつかうことになっているそうです。

 

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『太神宮諸雑事記』(だいじんぐうしょぞうじき)に

 (*伊勢の神宮の,創建より平安末期までの主要事項を編年体で記した書。
  平安末期の撰,皇大神宮禰宜(ねぎ)荒木田一族の手で書きつがれてきた)

永承5年(1050年)に上御井の水が涸れ、土宮の前の水(下御井の水)を汲んだ

という記述が見られますが、これは定かではないとされています。


貞和五年(1349)に成立した『風雅和歌集』には

「世々を経て 汲むとも尽きじ 久方の 天より移す をしほ井の水 」
と読まれた歌が選ばれています。
この歌の作者は鎌倉末期から南北朝時代歌人であり度会姓を持つ外宮の権禰宜の度会延誠(のぶとも )です。
つまり、外宮の神官が「おしほいの水は代々枯れることはない」と唄っているのです。

 

ということは、やはり枯れたことはないのでしょうか?
それとも祈願の気持ちも込めて詠んだ歌なのでしょうか?

(この永承5年には天変地異はありませんが
 翌年に前九年の役が起きて
 武家の台頭と公家の衰退を招きます…
 公家から神宮への寄進が減る原因にはなっていきますね)

 

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また、出雲にも眞名井神社があります。
その東方に「真名井の滝」と呼ばれる滝があり、
この滝壺で汲まれた水は古来より出雲国造の神火相続式や新嘗祭の折に
用いられたとされるそうです。

眞名井、神事につかう水、と
外宮の上御井神社の水と共通点があることが興味深いですね。


伊勢と出雲のつながりについて、最近また気になってしまっています。

出雲の本も読み漁ったりしつつ…。

(出雲に友人がいるので、コロナ明けたらフィールドワークに出向きたいです!)

考えがまとまったらこのブログで発表しますねw

 

さて。

今日の内容もYOUTUBEでまとめています。
ご覧いただけましたらうれしいです。

 

youtu.be

 

【伊勢神宮】内宮―皇大神宮―創建のお話

今更ながらですが、

このブログで伊勢神宮の創始についてまだ書いていませんでした!

 

神宮の創始については異説が多く、

伊勢にいても色々な持論の方がいらして

謎の厚い厚いベールに包まれています。

まさにミステリー。

 

私もちょっとした持論はありますものの、

日本書紀』『古事記』に沿った一番スタンダードな説を

神宮ビギナーさん向けにまとめてみたいと思います。

(多分神宮の公式にも近いものだと思います。)

 

まず今日は内宮・皇大神宮のお話です。

 

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古事記』や『日本書紀』によると
皇大神宮の創始は「垂仁天皇25年」のことだとされています。
垂仁天皇25年というのは、紀元前5年にあたり、
初代神武天皇の御代をスタートとした皇紀では656年となります。
垂仁天皇は11代目の天皇です。

 

日本書紀』に

【離天照大神於豊耜入姫命。託于倭姫命
 爰倭姫命求鎮坐大神之処。而詣莵田篠幡。〈篠此云佐佐。〉
 更還之入近江国。東廻美濃到伊勢国。】

 

天照大神を豊鍬入姫命より離ちまつりて、
倭姫命(やまとひめのみこと)に託(つ)けたまふ。
ここに倭姫命、大神を鎮(しず)め坐(ま)させむ処を求めて、
菟田の筱幡(ささはた)に詣(いた)る。
さらに還りて近江国に入りて、
東のかた美濃を廻りて伊勢国に至る。


とあるのが伊勢神宮内宮の創始とされています。

 


初代の天皇である神武天皇はアマテラスの玄孫とされてることから、
アマテラスは天皇家の祖先の神=皇祖神とされているのは

皆さまご存知のことですよね。

 

アマテラスの御魂は八咫鏡に宿るとされています。
これは、アマテラスの孫であるニニギ命が高天原から降臨した時に
「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。」
とご自身の神霊を八咫鏡に込めたため…と『日本書紀』には記されています。

その後、八咫鏡は代々、天皇によって宮中で祀られることとなっておりました。

 

ところが、
神武天皇から数えて10代目の崇神天皇の御代、異変が起こります。

崇神天皇5年のこと、疫病が流行り沢山の民が死んだのです。
更に翌年にも百姓が逃散したりと良くないことが続いたため、
崇神天皇はそれらを鎮めようとします。

日本書紀』「には

【(祟神)六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。
  是以、晨興夕惕、請罪神祇。
  先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之内。
  然畏其神勢、共住不安。
  故、以天照大神、託豐鍬入姫命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。
  神籬、此云比莽呂岐。
  亦以日本大國魂神、託渟名城入姫命令祭、然渟名城入姫、髮落體痩而不能祭。】


お百姓さんが村から逃げ出したり、悪いことが重なるので
占ったところ、アマテラスと倭大国魂神を並立して
宮中で天皇が祀ってるのがいけないと出た。
そこで、アマテラスを豊鍬入姫に託して、笠縫邑で祀らせることにした。
倭大国魂神は渟名城入姫命に託そうとしたが、

姫の髪の毛が抜け落ちたりして祀れなかった。

とあります。

 

ここに倭大国魂神も登場していますが、
今はアマテラス大神に焦点を絞りますね。

 

これは、
来宮中に祀られていたアマテラスを皇居の外に移すこととし、
豊鍬入姫命に託し、

大和の国(現在の奈良県)の笠縫邑に祀らせたと記されているのです。

つまり豊鍬入姫にアマテラスの御魂の宿る八咫鏡を託し、
宮中から離れた大和の笠縫邑で祀るようにしたのです。


豊鍬入姫は崇神天皇の皇女です。
崇神天皇は自らの娘にアマテラスを祀らせたのですね。

(それ故に、豊鍬入姫が斎宮のはじまりとする説もあります。)

 

そして、その後を継いだのがヤマトヒメです。

ヤマトヒメは垂仁天皇の皇女で、トヨスキイリヒメとは伯母・姪の関係にあたります。

トヨスキイリヒメがアマテラス祀っていたカサノヌイムラは神籬(ひもろぎ)、
つまり臨時の社、仮の社のようなものでした。
そこでヤマトヒメはアマテラス大神の御杖代となり、

正式に鎮座する場所を探す旅に出ます。
御杖代とはその名の通り、旅の供であり、アマテラス大神の依り代です。

ヒメミコの旅ですからお一人でアマテラス大神の御魂と旅をしたのではなく、
もちろんお供も伴ってのものとなります。


延暦二十三年(804)に伊勢大神宮が神宮の儀式などをまとめて太政官に提出した
延暦儀式帳』の阿紀(あき)神社の項には以下のようにあります。

 

 【次の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)にて
  天下をお治めになった活目天皇(いくめのすめらみこと。垂仁天皇)の御世、
  倭姫内親王を御杖代(みつゑしろ)とされ、いつき奉った。
  美和の御諸原に斎宮を造り、おいでになってお祭りを始められた。
  その時倭姫内親王は、大神を頂き奉って、
  大神の願う国を求めて美和の御諸原を出発された。
  その時、御送駅使(はゆまつかひ)として、
  阿倍武渟川別命(あへのたけぬなかはわけのみこと)、
  和珥彦国葺命(わにのひこくにぶくのみこと)、
  中臣大鹿嶋命(なかとみのおほかしまのみこと)、
  物部十千根命(もののべのとちねのみこと)、
  大伴武日命(おほとものたけひのみこと)、
  合わせて五柱の命が使いとして同行した。
  その時、宇太の阿貴宮(あきのみや)に坐し、
  次に佐々波多宮(ささはたのみや)に坐した。
  この時、大倭国造(やまとのくにのみやつこ)らが

  神御田と神戸をたてまつった。】

 

(この御送駅使の面々がまた興味深い面子なのですが、

 その追及は後回しにします。)

 

鎌倉時代に記された『倭姫命世記』によりますと、

 大和国宇多秋宮(宇太阿貴宮)に遷り、四年間奉斎。
この時、倭国造は、采女 香刀比売(かとひめ)、地口・御田を進った。
大神が倭姫命の夢に現はれ「高天の原に坐して吾が見し国に、吾を坐せ奉れ」と諭し教へた。
倭姫命はここより東に向って乞ひ、うけひして言ふに、
「我が心ざして往く処、吉きこと有れば、未嫁夫童女に相(逢)へ」と祈祷して幸行した。
 すると佐々波多が門(菟田筏幡)に、童女が現はれ参上したので、
「汝は誰そ」と問ふと、
「やつかれは天見通命の孫、八佐加支刀部(やさかきとめ)〔一名は伊己呂比命(いころひのみこと)〕が児、
宇太乃大称奈(うだのおほねな)」と申上げた。
また「御共に従ひて仕へ奉らむや」と問へば「仕へ奉らむ」と申上げた。
そして御共に従って仕へ奉る童女を大物忌(おほものいみ)と定めて、
天の磐戸の鑰(かぎ)を領け賜はって、黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、
左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、
左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉った。
元(はじめ)を元とし、本を本にする所縁である。
また弟大荒命も同じく仕へ奉った。宇多秋宮より幸行して、佐々波多宮に坐した。

 

この宇多秋宮と佐々波多宮はそれぞれ阿紀神社と篠畑神社とされています。


こうしてヤマトヒメは大和国から伊賀・近江・美濃・尾張と諸国を旅しますが、
なかなかアマテラスは「ここだ」と首を縦に振ってはくれません。
伊勢の国に入り、五十鈴川の川上に至ったときについに

 

【是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國】

 

この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。
傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ。

 

とようやくOKサインを下さります。

そう、そこが現在の伊勢神宮の内宮だとされているのです。

 

ヤマトヒメ的には
「長かった…なんでこんなに延々と旅させられたんだろ…。
 アマタラスめぇ、ワガママすぎやろ!?」
と恨み節の一つも言いたくなったに違いないほどに、この旅は長きにわたっていて、
立ち寄った場所には「元伊勢」と呼ばれる神社が数多く存在します。
この元伊勢のお話は以前にも触れましたので割愛いたします。

 

以上が大雑把ではありますが、

皇大神宮創始のお話です。

 

異説についてもまたの機会にまとめてお話してみたいなぁと思います♪

 

youtu.be

 

 

YOUTUBE はじめました!

皆さま、少々ご無沙汰しておりました。

そして遅れ馳せながら

新年あけましておめでとうございます。

 

昨年は結局1度も伊勢入りが果たせず…となりましたが、

昨年11月頃に、じわっと動きがありまして

今年は東京からリモートで伊勢を盛り上げて行こうと思っています。

 

名付けて「令和の御師計画」!!!

 

東京在住の伊勢に縁の面々と伊勢の友人知人識者の皆様を繋ぎつつ

色々と企画していきたいと思っています。

 

その序段としまして、YOUTUBEチャンネルを開設いたしました!

 

このブログで考察を重ねたことも取り入れつつ、

伊勢の魅力と歴史をお届けしたいと思っています。

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そして大風呂敷ついでに、

今年は執筆を仕事にしたいと思っております。

 

皆さま、どうぞご助力のほど宜しくお願い申し上げます!!

 

【鳥羽の神社】 満留山神社

志摩一宮・伊射波神社の山の麓には、

もうひとつ印象的な神社が建っています。

 

満留山神社です。

伊射波神社のバス最寄の「あらしま」下車すぐにあります。

 

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創建年は不明とのこと。

元は八王子社と呼ばれたようですが、

嘉永7年の津浪で流失し、満留山神社と改称したといいます。

 (参考→鳥羽市観光情報サイト - 知る

 

江戸時代に記された『諸国誌草稿』に

 「八王子神、答志郡安楽島村字丸山にあり

 境内面積千八百坪、祭神八王子にして創建年代詳らかならず

 祭日は正月七日、末社七つあり」

と書かれ、

 

志摩の地誌『志陽略誌』にも

 「八王子社同安楽島にあり

 牛頭天王、八幡祠、弁財天祠、恵比須宮等あり」

と記されているそうです。

 

(参考→三重県神社庁教化委員会 » 満留山神社

 

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御祭神は

五男三女神
素盞嗚尊
大山祇神

とされています。

 

五男三女神(ゴナンサンジョノカミ)はスサノオ御子神で八王子神です。

満留「山」神社ですので、山の神・大山祇神が祀られているのも自然の流れと見受けられます。

(鎮座地は「丸山」と呼ばれるそうです)

 

また、前出の神社庁のサイトには

「祭神は八王子神及び合祀した八神の計16神である」

とあり、

明治40年、中社(なかやしろ)ほか7社を合祀し現在に至るそうです。

 

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祭祀は、正月7日弓うち、

7月に天王祭と称し歌舞伎や地芝居、青年団の演劇などがおこなわれるそうです。

 

正月7日の弓うちとは、

江戸時代より続く弓立て神事で、

多くの人が見守る中、

選ばれし奉仕者により弓が引かれ

的に当たった数でその年の豊漁、豊作を占います。

的に当たると周囲は「アターリー」、

外れると「スコイリー」とはやしたてるそうです。

 

詳細はこちらに…伊勢志摩きらり千選

 

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また2014年には御遷座も行なわれたそうで、

お白石持ちの行事なども行なわれたそうです。

 

詳しくはこちら…御遷座を終えた満留山神社(鳥羽市安楽島町) – 神宮巡々2

 

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またとても美しく管理されている境内は

かぶらこさんの氏子さんの手によるものとも聞きました。

 

例祭の掲示板も二社共同でした。

(写真はないのですが)

 

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ちょっと石段に気圧されてしまいそうにもなりますが、

かぶらこさんに参拝の折には是非参拝していただきたい、

清らかな神社さんです。

【志摩・一宮】 伊射波神社③~2つの一宮~

さて、かぶらこさんこと伊射波神社は「志摩一宮」ですが、

志摩には一宮がもうひとつあります。

それは、神宮の別宮にもなっている伊雑宮です。

(参考;【125社めぐり】 別宮 伊雑宮 - 伊勢河崎ときどき古民家

 

なぜ一宮がふたつあるのか?

そもそも一宮って何なの?

―今日はそこを考察してみたいと思います。

 

*今日の箸休め写真は全国一の難一宮といわれる、かぶらこさんの本殿までの道程です。

 かぶらこさんに向かう気分でお楽しみくださいね。

 

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御朱印帳を片手に全国一宮参拝をなさる方もいるようですが、

そもそも一宮って何でしょう阿?

 

一宮とは、律令で定められた国において最も社格の高いとされる神社のことを指します。


一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼び、
更に一部の国では四宮以下が定められていた事例もあります。

 

律令制において国司は任国内の諸社に神拝すると定められていて、

通説によると一宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると言われています。

 

律令制が崩壊してからも、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続けています。

現在ではすべての神社は平等とされてはいますが、

かつて一宮とされた神社のほとんどが「△△国一宮」を名乗っていますね。

(よくお正月になると「○○国一宮□□神社」というCMをご覧になると思います)

 

一宮の選定基準を規定した文献資料は無いようですが、

一宮には次のような一定の形式があるとされます。


1.原則的に令制国1国あたり1社。

2.祭神には国津神系統の神が多く、開拓神として土地と深いつながりを持ち、

 地元民衆の篤い崇敬対象の神社から選定。

3.全て『延喜式神名帳』の式内社の中から選定。

4.必ずしも神位の高きによらないで、小社もこれに与かっている。

 (『「一宮」の選定とその背景』より)

 

また、諸国一宮が少なくとも次のようなそれぞれ次元を異にする3つの側面を持つともいいます。


1.氏人や神人などの特定の社会集団や地域社会にとっての守護神。

2.一国規模の領主層や民衆にとっての政治的守護神。

3.中世日本諸国にとっての国家的な守護神。

 (『中世諸国一宮制研究の現状と課題』より)

 

(参考→一宮 - Wikipedia

 

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「一国に一社」とされていたのに、なぜ志摩には一宮がふたつあるのでしょう?

 

実は、他の律令国でも2社以上が一宮という名冠している例は割合多いのです。

その一覧は下記のようになります。

 

 山城国
賀茂別雷神社
賀茂御祖神社
 (二宮以下は不詳)

 

伊勢国
椿大神社  
都波岐神社
 二宮:多度大社
 (三宮以下はなし)


遠江国
小国神社
事任八幡宮
  二宮:鹿苑神社/二宮神社
 (三宮以下はなし) 


武蔵国
小野神社
氷川神社
 三宮:氷川神社
 四宮:秩父神社
 五宮:金鑚神社
 六宮:杉山神社 
 

下野国
二荒山神社  
二荒山神社
 (二宮以下はなし)


陸奥国
鹽竈神社
都都古和氣神社
都々古別神社
 二宮:伊佐須美神社
 (三宮以下はなし) 


加賀国
白山比咩神社
石部神社
 二宮:菅生石部神社
 (三宮以下はなし) 


越中国
気多神社
高瀬神社
射水神社 
雄山神社
 (二宮以下はなし)


越後国
彌彦神社
居多神社
天津神
 二宮:物部神社
 (三宮:八海神社<所在不詳>) 


但馬国
出石神社
粟鹿神社
 二宮:粟鹿神社
 三宮:水谷神社/養父神社 


隠岐国
水若酢神社
由良比女神社
 (二宮以下はなし)


紀伊国
日前神宮國懸神宮  
丹生都比売神社 
伊太祁󠄀曽神社
 (二宮以下は不詳)


阿波国
上一宮大粟神社  
一宮神社
大麻比古神社
八倉比売神
 (二宮以下は不詳)

 
豊後国
柞原八幡宮  
西寒多神社
 (二宮以下は不詳)


薩摩国
枚聞神社
新田神社
 (二宮:加紫久利神社)
 (三宮以下はなし) 


壱岐国
興神社  
天手長男神社 
 (二宮:聖母宮)


対馬国
海神神社
厳原八幡宮神社
 (二宮以下は不詳)

 

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そうです、2社なんてかわいいほうで、3社4社5社なんてところもあるのです。

では、なぜそのようなことになっているのでしょう?

 

山城国(京都)のように、下賀茂上賀茂と同系列の神社が定められてるのは

何となく事情は察せられますが、

その他の神社にはどんな背景があるのでしょう?

 

ひとつは領土の問題です。

越中国の場合、能登国を併合・分立しており、その際に一宮に変遷があったようです。

 

また相模国の場合は、7世紀の相武(さがむ)と師長(しなが、磯長)の合併により

相模国が成立した際、相武と師長のいずれの一宮を相模国一宮とするかで争いが起きたという例もあります。

(結果的に寒川神社が勝ったようですが。)

 

そのように一宮争いが起きた例も数々あり、

薩摩国においては一宮が未確定であったものの、

蒙古襲来に際し、一宮において「異国降伏祈祷」を行うよう鎌倉幕府から命じられたことをきっかけに、

新田神社と枚聞神社の間で薩摩国一宮相論が開始されたといいます。

(現在も両社とも一宮とされていますね)

 

権力者絡みでいいますと、

備前国では同国内で唯一の名神大社に列せられた安仁神社が一宮となるはずであったが、

天慶2年(939年)に起きた天慶の乱において

同社が藤原純友方に味方したため、

一宮の地位を朝廷から剥奪されたとされ、

その地位は隣国の備中国一宮・吉備津神社より分祀

備前国内に創建された吉備津彦神社に移ったと伝えられています。

 

このように一宮が変遷していった例は、

武蔵国の一宮、二宮、三宮にも見られます。

こちらは南北朝時代の文献と室町時代の文献で順位が入れ替わっているそうです。

 

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では、我らがかぶらこさん・志摩国一宮では何があったのでしょう?

 


一説によると、

伊雑宮伊勢神宮の別宮兼官社だったため、

民社で同じ祭神の当社を一宮にすべき事情があったのでは?といいます。

 (『日本の神々』より)

 

ん?同じ神様?

伊雑宮の御祭神は天照大神御魂です。

伊射波神社の御祭神に天照大神はいませんよね?

ですが、稚日女尊天照大神(大日孁貴神(オオヒルメムチ))の幼名ではないかとする説があるので

これに因ったのでしょうか?

 

また同書においては、

鳥羽藩が神領再興を叫ぶ伊雑宮神職を牽制するために

もう1つの一宮をつくったのではないかという推測もなされています。

 

『志陽略誌』には

「倭論語云う志摩大明神と号す是なり。或人志摩国一宮と云う也

(略)

往古社頭地あると雖も、戦国より以来之を亡失す」

とあります。

「志摩大明神」はかぶらこさんの別名です。

この本が出されたのは江戸時代末期、

文政6年(1823年)ですので、

この頃にはかぶらこさんは志摩一宮とされていたようですね。

 

 

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ですが、伊雑宮こそが一宮であるという説もあります。

年出された『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、

次の5つの理由から伊雑宮こそが志摩国の一宮としています。


1.『和名類聚抄』の例から「伊射波」は「伊雑」の万葉仮名と考えられること。

2.『大神宮本記帰正鈔』の「廿七年伊雑宮造立」の項に

 「神宮ヨリ摂スル時ハ、伊雑宮宮号ヲ以テ称シ、

 志摩国司ノ管スル時ハ、伊射波神社ト社号ヲ以テセシト見エテ」とあり、

 神宮と国司伊雑宮の呼び方が異なったこと。

3.加布良古明神は古くは荒前神社と呼ばれたらしく、古代・中世の史料に伊射波神社の名がないこと。

4.明治7年(1874年)に薗田守宣が著した『伊射波神社考』に

 「文化四年六月、城主(鳥羽城主稲垣長以)ノ沙汰トシテ、社ノ覆屋、拝殿・鳥居ヲ寄附シ、

 神号ノ捜索アリテ、伊射波大明神ナル趣ヲ啓ス」とあり、

 文化4年(1807年)から当社を伊射波神社と称したこと。

5.一宮は、一般に国府に近い大社とされる慣例だったが、

 国府推定地である志摩郡阿児町国府から見て、伊雑宮の方が当社より近いこと。

 

私見ですが、ちょっと反証があります。

まず1と5はこじつけっぽいな、と。

1万葉仮名については慣例外の使用があまりにも多いので、論拠として薄いと思います。

国府に近くない一宮もあるのと、あえていえば近いのはどうかと。

 (特に数社乱立している場合。5はそれを度外視しているのでは?)

 

3また、神宮繋がりで考えますと…荒前神社は二見にある内宮摂社です。

 それをどう捉えているのか?荒前神社が二社あったのか???

 

4「神号ノ捜索アリテ、伊射波大明神ナル趣ヲ啓ス」とあるのを、なぜこのとき号したととるのか?

 (捜索って過去~現在において存在したものを見つけ出すことでは?)

 

2「神宮ヨリ摂スル時ハ、伊雑宮宮号ヲ以テ称シ、

 志摩国司ノ管スル時ハ、伊射波神社ト社号ヲ以テセシト見エテ」

これも、神宮にとっての一宮は伊雑宮ってことにして、

国司律令下においては)伊射波神社を一宮として号令しましょう、

という意味にもとれるのでは?

 

そもそも、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に「貞コ粟嶋坐伊射波神社二座 並 大」

とあり、粟島(あらしま)に伊射波神社が存在してますし、

伊射波神社の名前も江戸時代ではなく、平安時代にもうあるんですよね。

 

以上、反証でした。

 

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私がかぶらこさんの関係者の方に聞いた話では

やはり一宮争い的なことはあったようなのですが、

何せ神宮にも関わることなので、皆さん口が重いです。

 

個人的には↑の反証2でした、

「神宮サイドには一宮は伊雑宮ってことにして、

 律令国としては伊射波神社を一宮にしよう。」

というのが有力かと思います。

 

やはり神宮の御膝元といってもいい場所ですので

神宮への配慮もあったでしょうし、

でも律令下における一宮の役割を神宮の別宮でこなすのは難しかったため、

伊射波神社に白羽の矢が中てられたのではないでしょうか?

名前が似ていたのも選ばれた理由のひとつかもしれませんが、、、。

 

ところで「伊射波」って「いざなみ」って読めますよね。

そこに勝手なミステリーを妄想したくなってしまうのは、わたしだけでしょうか?

【志摩・一宮】伊射波神社②~奇跡の窓より奇跡的な氏子さんたち編~

伊射波神社、通称かぶらこさんについての考察を昨日しましたが、

今日はかぶらこさんの観光スポットでもある絶景ポイントをお伝えしたく思います。

 

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本殿の先の岬に「領有神(うしはくのかみ)」が祀られているお話も昨日しましたが、

(未読の方はよろしければチェックしてみてくださいね)

そこに「奇跡の窓」と名付けられた場所があります。

 

そこからの眺めが、地元では大人気なのです!

それがここです!

 

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岬を囲む木々の間からのこの景色…。

海の青と空の青。

うしはくの神が鎮座したくなるのもわかります。

 

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季節によって、この窓は様々な色を見せてくれます。

氏子さんのなかには、毎日この景色を写真に収めている方もいるんです。

 

そして、かぶらこさんにお邪魔する度に思うのが、氏子さんたちが、アツイ!!!

 

海辺のお掃除はもとより、 

鳥居の前や、神殿の前の石がとても丁寧に並べられていたり、

ある日はこんなにかわいらしいことになっていたり(写真↓)…

なんとも心が温かくなります。

神様たちもほっこりなさっているのでは?と想像。

 

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更に皆さん、特技や技術を持ち寄って色々なことに取り組んでいらっしゃいます。

 

例えば、このお賽銭箱。

(奇跡の窓の近くにあります)

 

多分、ここからコインを投げないようにという配慮だと思うのですが

(なぜか寺社の水辺って皆さんコインを投げ入れがちですが、ここではとっても危険!!)

この笑顔にしちゃうところがめっちゃイイですよね。

 

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この方は板金をお仕事にされているそうで、

実はこちら(写真↓)のオリジナルのお守りキーホルダーも手掛けていらっしゃるとか。

 

栞付きです。

栞の写真は前述の氏子さんの撮った写真の傑作選になっています。

 

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そしてかぶらこさん、お守りもそもそもかわいいんですよ!

お守り袋が色々な柄があって、迷います!!

  

そして、伊勢和紙のオリジナル御朱印帳もあります!

オールハンドメイドです!!!

(表紙の写真がなくてごめんなさい)

 

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↑ちょっと以前のものですが、御朱印です。

達筆!かっこいい!!

なのに、「もっと書道を上達せねば」と宮司さんはおっしゃってっるとか。

ストイック!!!素敵です。(見習わねば)

 

ただ、この御朱印は本殿ではなく、宮司さんのお家に行かないといただけません!

その地図は本殿にありますので、まずは本殿にしっかりご参拝を!

 

最後にプチ自慢。

キーホルダーお守りについている栞に

伊勢和紙も貼ってほしいな~というアイデアを出したのは、私です(どやっ)。

 

(*現行品は伊勢千代紙つきのはず←昨年はそのようになってました)

【志摩・一宮】伊射波神社①~歴史考察編~

先だってゴージャスな例祭についてお話しした伊射波神社さん。

今日はその歴史について見ていきたいと思います。

 

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鳥羽市安楽島町加布良古崎の先端に建つことから、

地元では「かぶらこさん」の愛称で親しまれています。

加布良古大明神」という異名も持つそうです(神仏習合の名残ですね)。

 

境内に向かう途中に出会える美しい志摩の海岸は

氏子さんたちが清掃活動をしていらっしゃいます。

 

 

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「日本一参拝が困難な一宮」と呼ばれるだけあって(地元情報なので真偽は謎)、

山道を登り、フィニッシュは石段です。

(石段と並行してスロープもありますが、逆に下りは膝に来ます)

 

また、この加布良古崎の地へも車以外での到達が若干不便です。

かもめバス「安楽島方面行き」の終点「安楽島」が最寄りのバス停ですが、

発着数が少ないのでご注意を。

更に鳥居まで徒歩約30分くらいかかります。

 

この海に向かって立つ鳥居は、

昭和初期までは海岸まで船で来て参拝した名残だといわれています。

 

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創建は1500~1600年ほど前だと推測されています。

 

御祭神の稚日女尊を海の道から加布良古崎へ祭祀したのが起源といわれ、

志摩国海上守護神として古代から崇敬されたと伝わります。

 

延喜式神明帳』には「答志郡粟島坐伊射波神社」と記載があります。

また建久3年(1192年)、皇太神宮年中行事には「加布良古の明神」との記載も。

 

『外宮旧神楽歌』には

志摩国知久利が浜におわします悪止・赤崎・悪止九所のみまえには、

 あまたの船こそ浮かんだれ、艫には赤碕のり玉う。

 舳先には大明神加布良古神)のり玉う。

 加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし、

 加布良古の沖の汐ひかば、都へなびけ、我も靡かん。

 加布良古の大明神にお遊びの上分を参らする請玉の宝殿」

とあります。

 

赤崎は同じ鳥羽市内にあります外宮の末社です。

(参考;【( 125社めぐり】 外宮 末社 赤崎神社 - 伊勢河崎ときどき古民家

 

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御祭神は、

稚日女尊

伊佐波登美尊

玉柱屋姫命

狭依姫命

 

稚日女尊はアマテラス大神が岩戸に隠れるきっかけとなった、

スサノオの暴挙で亡くなった神様です。

斎服殿で神衣を織っていたとき、スサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだため、稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭で身体を傷つけて亡くなった)

 

また、神功皇后三韓征伐の折に、

「尾田(現、三重県鳥羽市の加布良古の古名)の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋= 安楽島)に居る神」

として現れた神が稚日女尊であるとされています。

そしてこのとき神が坐しましていたのが、この伊射波神社なのです。

 

(その後、稚日女尊は神戸の生田の宮に移ります。

 神功皇后三韓外征の帰途、難波へ向おうとしたが船が真直に進めなくなったため、武庫の港(神戸港)に還って占いを行ったところ、稚日女尊が現れられ「私は活田長峡国にいたい」と神宣があったので、海上五十狭茅に祭らせたとあり、これが今日の生田神社であるといいます。)

 

また、稚日女尊天照大神自身のこととも、

幼名であるとも言われ(生田神社では幼名と説明している)

妹神や御子神であるとも言われています。

丹生都比賣神社和歌山県伊都郡かつらぎ町では、

御祭神の水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が

稚日女尊であり、天照大神の妹神であるとしているそうです。

 

(余談;水銀鉱床の神である丹生都比賣大神といえば、

 多気町の丹生神社も彷彿とさせますね。

 水銀は不老不死や若返りの妙薬ともされていましたし、

 何か関係があるかもしれません)

 

伊佐波登美尊は『倭姫命世記』によれば、

倭姫命皇大神宮の朝夕の御贄を奉る地を探して志摩国を訪れたとき、

この神が出迎えたとしています。

安楽島の二地の鳥羽贄遺跡がこの神の本宮跡で、平安時代後期に現在地へ移ったと言われます。(『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』)

 

玉柱屋姫命は、伊雑宮の『御鎮座本縁』などでは天叢雲命の裔、伊勢国造の祖・天日別命の子であるとされています。

伊佐波登美命の妃神と解説する本もあります。(前出)

 

狭依姫命は、宗像三女神の1柱市杵島姫命の別名とされています。

近くの長藻地と言う島に祀られていたそうですが、

島が水没したので当社に合祀されたと言われています。(前出)

 

女性の神様が多いせいでしょうか、

御神威は、縁結び・夫婦和合・海上安全・大漁祈願・五穀豊穣・合格祈願・病気平癒(特に女性)

とされています。

 

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この加布良古崎には、更にもう一柱の神様が祀られています。

それは、領有神(うしはくのかみ)です。

 

稚日女尊らが祀られる正殿のそのまた先、

神社で神木とされることも多いナギの木も見られる森の中を行き、

先端の岬に鎮座します。

(写真はないですが、お社もあります)

 

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うしはくとは、神道における古語で「支配する、領知する」という意味を表します。

漢字で書けば、「領(うしは)く」となります。

神の力を表す「大人(うし)」と、身につける意味の「佩(は)く」が語源になっていると言われ、

「うしはく」は神々に対して用い、「しらす」は主に皇室に対して用いられる言葉です。

 

「うしはくのかみ」聞いたことあるな…と、国文畑出身・万葉集の時代専攻の私は思ったのですが、その場ではどうしても思いませず…。

後々調べてみたところ、万葉集に6例あるそうです。

特にそのうちのひとつが、

「住吉の 現人神(あらひとがみ) 船舳(ふなのへ)に うしはきたまひ」6-1020

と、船の舳先に人身で現れています。

これは前述した『外宮旧神楽歌』の

「舳先には大明神加布良古神)のり玉う。」

と見事に合致していますね。

 

またうしはくの神は海以外にも山にも登場しています。

 

日本書紀では天つ神が国つ神に対し

「おまえが領有する(=うしはける葦原中国は、私の御子の支配する国だ」

とも言っています。

 

(参考→うしはく (意味とはフレーズ表現辞典)

    國學院デジタルミュージアム)

 

つまりうしはくの神は、その領主である神で、

加布良古岬―しいてはこの志摩の国を治めていた神なのでしょう。

 

↑のご由緒に見られる「宇志波那流神」は、

「うしはなる神」=「うしは・なる神」=「うしはくである神」

ではないでしょうか?

(漢字の当て方は奈良時代以降のような美しさですね)

 

今でもこの岬を通る漁師さんたちは

かぶらこさんに手を合わせると聞いたことがありますが、それも頷けます。