伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【鳥羽の神社】 満留山神社

志摩一宮・伊射波神社の山の麓には、

もうひとつ印象的な神社が建っています。

 

満留山神社です。

伊射波神社のバス最寄の「あらしま」下車すぐにあります。

 

f:id:itoshiya8ise:20201022153132j:plain

 

創建年は不明とのこと。

元は八王子社と呼ばれたようですが、

嘉永7年の津浪で流失し、満留山神社と改称したといいます。

 (参考→鳥羽市観光情報サイト - 知る

 

江戸時代に記された『諸国誌草稿』に

 「八王子神、答志郡安楽島村字丸山にあり

 境内面積千八百坪、祭神八王子にして創建年代詳らかならず

 祭日は正月七日、末社七つあり」

と書かれ、

 

志摩の地誌『志陽略誌』にも

 「八王子社同安楽島にあり

 牛頭天王、八幡祠、弁財天祠、恵比須宮等あり」

と記されているそうです。

 

(参考→三重県神社庁教化委員会 » 満留山神社

 

f:id:itoshiya8ise:20201022153247j:plain

 

御祭神は

五男三女神
素盞嗚尊
大山祇神

とされています。

 

五男三女神(ゴナンサンジョノカミ)はスサノオ御子神で八王子神です。

満留「山」神社ですので、山の神・大山祇神が祀られているのも自然の流れと見受けられます。

(鎮座地は「丸山」と呼ばれるそうです)

 

また、前出の神社庁のサイトには

「祭神は八王子神及び合祀した八神の計16神である」

とあり、

明治40年、中社(なかやしろ)ほか7社を合祀し現在に至るそうです。

 

f:id:itoshiya8ise:20201022153317j:plain

 

祭祀は、正月7日弓うち、

7月に天王祭と称し歌舞伎や地芝居、青年団の演劇などがおこなわれるそうです。

 

正月7日の弓うちとは、

江戸時代より続く弓立て神事で、

多くの人が見守る中、

選ばれし奉仕者により弓が引かれ

的に当たった数でその年の豊漁、豊作を占います。

的に当たると周囲は「アターリー」、

外れると「スコイリー」とはやしたてるそうです。

 

詳細はこちらに…伊勢志摩きらり千選

 

f:id:itoshiya8ise:20201022153414j:plain

 

また2014年には御遷座も行なわれたそうで、

お白石持ちの行事なども行なわれたそうです。

 

詳しくはこちら…御遷座を終えた満留山神社(鳥羽市安楽島町) – 神宮巡々2

 

f:id:itoshiya8ise:20201022153351j:plain

 

またとても美しく管理されている境内は

かぶらこさんの氏子さんの手によるものとも聞きました。

 

例祭の掲示板も二社共同でした。

(写真はないのですが)

 

f:id:itoshiya8ise:20201022153204j:plain

 

ちょっと石段に気圧されてしまいそうにもなりますが、

かぶらこさんに参拝の折には是非参拝していただきたい、

清らかな神社さんです。

【志摩・一宮】 伊射波神社③~2つの一宮~

さて、かぶらこさんこと伊射波神社は「志摩一宮」ですが、

志摩には一宮がもうひとつあります。

それは、神宮の別宮にもなっている伊雑宮です。

(参考;【125社めぐり】 別宮 伊雑宮 - 伊勢河崎ときどき古民家

 

なぜ一宮がふたつあるのか?

そもそも一宮って何なの?

―今日はそこを考察してみたいと思います。

 

*今日の箸休め写真は全国一の難一宮といわれる、かぶらこさんの本殿までの道程です。

 かぶらこさんに向かう気分でお楽しみくださいね。

 

f:id:itoshiya8ise:20201022093536j:plain

 

御朱印帳を片手に全国一宮参拝をなさる方もいるようですが、

そもそも一宮って何でしょう阿?

 

一宮とは、律令で定められた国において最も社格の高いとされる神社のことを指します。


一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼び、
更に一部の国では四宮以下が定められていた事例もあります。

 

律令制において国司は任国内の諸社に神拝すると定められていて、

通説によると一宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると言われています。

 

律令制が崩壊してからも、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続けています。

現在ではすべての神社は平等とされてはいますが、

かつて一宮とされた神社のほとんどが「△△国一宮」を名乗っていますね。

(よくお正月になると「○○国一宮□□神社」というCMをご覧になると思います)

 

一宮の選定基準を規定した文献資料は無いようですが、

一宮には次のような一定の形式があるとされます。


1.原則的に令制国1国あたり1社。

2.祭神には国津神系統の神が多く、開拓神として土地と深いつながりを持ち、

 地元民衆の篤い崇敬対象の神社から選定。

3.全て『延喜式神名帳』の式内社の中から選定。

4.必ずしも神位の高きによらないで、小社もこれに与かっている。

 (『「一宮」の選定とその背景』より)

 

また、諸国一宮が少なくとも次のようなそれぞれ次元を異にする3つの側面を持つともいいます。


1.氏人や神人などの特定の社会集団や地域社会にとっての守護神。

2.一国規模の領主層や民衆にとっての政治的守護神。

3.中世日本諸国にとっての国家的な守護神。

 (『中世諸国一宮制研究の現状と課題』より)

 

(参考→一宮 - Wikipedia

 

f:id:itoshiya8ise:20201022093612j:plain

 

「一国に一社」とされていたのに、なぜ志摩には一宮がふたつあるのでしょう?

 

実は、他の律令国でも2社以上が一宮という名冠している例は割合多いのです。

その一覧は下記のようになります。

 

 山城国
賀茂別雷神社
賀茂御祖神社
 (二宮以下は不詳)

 

伊勢国
椿大神社  
都波岐神社
 二宮:多度大社
 (三宮以下はなし)


遠江国
小国神社
事任八幡宮
  二宮:鹿苑神社/二宮神社
 (三宮以下はなし) 


武蔵国
小野神社
氷川神社
 三宮:氷川神社
 四宮:秩父神社
 五宮:金鑚神社
 六宮:杉山神社 
 

下野国
二荒山神社  
二荒山神社
 (二宮以下はなし)


陸奥国
鹽竈神社
都都古和氣神社
都々古別神社
 二宮:伊佐須美神社
 (三宮以下はなし) 


加賀国
白山比咩神社
石部神社
 二宮:菅生石部神社
 (三宮以下はなし) 


越中国
気多神社
高瀬神社
射水神社 
雄山神社
 (二宮以下はなし)


越後国
彌彦神社
居多神社
天津神
 二宮:物部神社
 (三宮:八海神社<所在不詳>) 


但馬国
出石神社
粟鹿神社
 二宮:粟鹿神社
 三宮:水谷神社/養父神社 


隠岐国
水若酢神社
由良比女神社
 (二宮以下はなし)


紀伊国
日前神宮國懸神宮  
丹生都比売神社 
伊太祁󠄀曽神社
 (二宮以下は不詳)


阿波国
上一宮大粟神社  
一宮神社
大麻比古神社
八倉比売神
 (二宮以下は不詳)

 
豊後国
柞原八幡宮  
西寒多神社
 (二宮以下は不詳)


薩摩国
枚聞神社
新田神社
 (二宮:加紫久利神社)
 (三宮以下はなし) 


壱岐国
興神社  
天手長男神社 
 (二宮:聖母宮)


対馬国
海神神社
厳原八幡宮神社
 (二宮以下は不詳)

 

f:id:itoshiya8ise:20201022093631j:plain

 

そうです、2社なんてかわいいほうで、3社4社5社なんてところもあるのです。

では、なぜそのようなことになっているのでしょう?

 

山城国(京都)のように、下賀茂上賀茂と同系列の神社が定められてるのは

何となく事情は察せられますが、

その他の神社にはどんな背景があるのでしょう?

 

ひとつは領土の問題です。

越中国の場合、能登国を併合・分立しており、その際に一宮に変遷があったようです。

 

また相模国の場合は、7世紀の相武(さがむ)と師長(しなが、磯長)の合併により

相模国が成立した際、相武と師長のいずれの一宮を相模国一宮とするかで争いが起きたという例もあります。

(結果的に寒川神社が勝ったようですが。)

 

そのように一宮争いが起きた例も数々あり、

薩摩国においては一宮が未確定であったものの、

蒙古襲来に際し、一宮において「異国降伏祈祷」を行うよう鎌倉幕府から命じられたことをきっかけに、

新田神社と枚聞神社の間で薩摩国一宮相論が開始されたといいます。

(現在も両社とも一宮とされていますね)

 

権力者絡みでいいますと、

備前国では同国内で唯一の名神大社に列せられた安仁神社が一宮となるはずであったが、

天慶2年(939年)に起きた天慶の乱において

同社が藤原純友方に味方したため、

一宮の地位を朝廷から剥奪されたとされ、

その地位は隣国の備中国一宮・吉備津神社より分祀

備前国内に創建された吉備津彦神社に移ったと伝えられています。

 

このように一宮が変遷していった例は、

武蔵国の一宮、二宮、三宮にも見られます。

こちらは南北朝時代の文献と室町時代の文献で順位が入れ替わっているそうです。

 

f:id:itoshiya8ise:20201022093815j:plain

 

では、我らがかぶらこさん・志摩国一宮では何があったのでしょう?

 


一説によると、

伊雑宮伊勢神宮の別宮兼官社だったため、

民社で同じ祭神の当社を一宮にすべき事情があったのでは?といいます。

 (『日本の神々』より)

 

ん?同じ神様?

伊雑宮の御祭神は天照大神御魂です。

伊射波神社の御祭神に天照大神はいませんよね?

ですが、稚日女尊天照大神(大日孁貴神(オオヒルメムチ))の幼名ではないかとする説があるので

これに因ったのでしょうか?

 

また同書においては、

鳥羽藩が神領再興を叫ぶ伊雑宮神職を牽制するために

もう1つの一宮をつくったのではないかという推測もなされています。

 

『志陽略誌』には

「倭論語云う志摩大明神と号す是なり。或人志摩国一宮と云う也

(略)

往古社頭地あると雖も、戦国より以来之を亡失す」

とあります。

「志摩大明神」はかぶらこさんの別名です。

この本が出されたのは江戸時代末期、

文政6年(1823年)ですので、

この頃にはかぶらこさんは志摩一宮とされていたようですね。

 

 

f:id:itoshiya8ise:20201022093832j:plain

 

ですが、伊雑宮こそが一宮であるという説もあります。

年出された『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、

次の5つの理由から伊雑宮こそが志摩国の一宮としています。


1.『和名類聚抄』の例から「伊射波」は「伊雑」の万葉仮名と考えられること。

2.『大神宮本記帰正鈔』の「廿七年伊雑宮造立」の項に

 「神宮ヨリ摂スル時ハ、伊雑宮宮号ヲ以テ称シ、

 志摩国司ノ管スル時ハ、伊射波神社ト社号ヲ以テセシト見エテ」とあり、

 神宮と国司伊雑宮の呼び方が異なったこと。

3.加布良古明神は古くは荒前神社と呼ばれたらしく、古代・中世の史料に伊射波神社の名がないこと。

4.明治7年(1874年)に薗田守宣が著した『伊射波神社考』に

 「文化四年六月、城主(鳥羽城主稲垣長以)ノ沙汰トシテ、社ノ覆屋、拝殿・鳥居ヲ寄附シ、

 神号ノ捜索アリテ、伊射波大明神ナル趣ヲ啓ス」とあり、

 文化4年(1807年)から当社を伊射波神社と称したこと。

5.一宮は、一般に国府に近い大社とされる慣例だったが、

 国府推定地である志摩郡阿児町国府から見て、伊雑宮の方が当社より近いこと。

 

私見ですが、ちょっと反証があります。

まず1と5はこじつけっぽいな、と。

1万葉仮名については慣例外の使用があまりにも多いので、論拠として薄いと思います。

国府に近くない一宮もあるのと、あえていえば近いのはどうかと。

 (特に数社乱立している場合。5はそれを度外視しているのでは?)

 

3また、神宮繋がりで考えますと…荒前神社は二見にある内宮摂社です。

 それをどう捉えているのか?荒前神社が二社あったのか???

 

4「神号ノ捜索アリテ、伊射波大明神ナル趣ヲ啓ス」とあるのを、なぜこのとき号したととるのか?

 (捜索って過去~現在において存在したものを見つけ出すことでは?)

 

2「神宮ヨリ摂スル時ハ、伊雑宮宮号ヲ以テ称シ、

 志摩国司ノ管スル時ハ、伊射波神社ト社号ヲ以テセシト見エテ」

これも、神宮にとっての一宮は伊雑宮ってことにして、

国司律令下においては)伊射波神社を一宮として号令しましょう、

という意味にもとれるのでは?

 

そもそも、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に「貞コ粟嶋坐伊射波神社二座 並 大」

とあり、粟島(あらしま)に伊射波神社が存在してますし、

伊射波神社の名前も江戸時代ではなく、平安時代にもうあるんですよね。

 

以上、反証でした。

 

f:id:itoshiya8ise:20201022093930j:plain

 

私がかぶらこさんの関係者の方に聞いた話では

やはり一宮争い的なことはあったようなのですが、

何せ神宮にも関わることなので、皆さん口が重いです。

 

個人的には↑の反証2でした、

「神宮サイドには一宮は伊雑宮ってことにして、

 律令国としては伊射波神社を一宮にしよう。」

というのが有力かと思います。

 

やはり神宮の御膝元といってもいい場所ですので

神宮への配慮もあったでしょうし、

でも律令下における一宮の役割を神宮の別宮でこなすのは難しかったため、

伊射波神社に白羽の矢が中てられたのではないでしょうか?

名前が似ていたのも選ばれた理由のひとつかもしれませんが、、、。

 

ところで「伊射波」って「いざなみ」って読めますよね。

そこに勝手なミステリーを妄想したくなってしまうのは、わたしだけでしょうか?

【志摩・一宮】伊射波神社②~奇跡の窓より奇跡的な氏子さんたち編~

伊射波神社、通称かぶらこさんについての考察を昨日しましたが、

今日はかぶらこさんの観光スポットでもある絶景ポイントをお伝えしたく思います。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019120535j:plain

 

本殿の先の岬に「領有神(うしはくのかみ)」が祀られているお話も昨日しましたが、

(未読の方はよろしければチェックしてみてくださいね)

そこに「奇跡の窓」と名付けられた場所があります。

 

そこからの眺めが、地元では大人気なのです!

それがここです!

 

f:id:itoshiya8ise:20201019120156j:plain

 

岬を囲む木々の間からのこの景色…。

海の青と空の青。

うしはくの神が鎮座したくなるのもわかります。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019120017j:plain

 

季節によって、この窓は様々な色を見せてくれます。

氏子さんのなかには、毎日この景色を写真に収めている方もいるんです。

 

そして、かぶらこさんにお邪魔する度に思うのが、氏子さんたちが、アツイ!!!

 

海辺のお掃除はもとより、 

鳥居の前や、神殿の前の石がとても丁寧に並べられていたり、

ある日はこんなにかわいらしいことになっていたり(写真↓)…

なんとも心が温かくなります。

神様たちもほっこりなさっているのでは?と想像。

 

f:id:itoshiya8ise:20201022090946j:plain

 

更に皆さん、特技や技術を持ち寄って色々なことに取り組んでいらっしゃいます。

 

例えば、このお賽銭箱。

(奇跡の窓の近くにあります)

 

多分、ここからコインを投げないようにという配慮だと思うのですが

(なぜか寺社の水辺って皆さんコインを投げ入れがちですが、ここではとっても危険!!)

この笑顔にしちゃうところがめっちゃイイですよね。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019120219j:plain

 

この方は板金をお仕事にされているそうで、

実はこちら(写真↓)のオリジナルのお守りキーホルダーも手掛けていらっしゃるとか。

 

栞付きです。

栞の写真は前述の氏子さんの撮った写真の傑作選になっています。

 

 f:id:itoshiya8ise:20201022090646j:plain

 

そしてかぶらこさん、お守りもそもそもかわいいんですよ!

お守り袋が色々な柄があって、迷います!!

  

そして、伊勢和紙のオリジナル御朱印帳もあります!

オールハンドメイドです!!!

(表紙の写真がなくてごめんなさい)

 

f:id:itoshiya8ise:20201019120050j:plain

 

↑ちょっと以前のものですが、御朱印です。

達筆!かっこいい!!

なのに、「もっと書道を上達せねば」と宮司さんはおっしゃってっるとか。

ストイック!!!素敵です。(見習わねば)

 

ただ、この御朱印は本殿ではなく、宮司さんのお家に行かないといただけません!

その地図は本殿にありますので、まずは本殿にしっかりご参拝を!

 

最後にプチ自慢。

キーホルダーお守りについている栞に

伊勢和紙も貼ってほしいな~というアイデアを出したのは、私です(どやっ)。

 

(*現行品は伊勢千代紙つきのはず←昨年はそのようになってました)

【志摩・一宮】伊射波神社①~歴史考察編~

先だってゴージャスな例祭についてお話しした伊射波神社さん。

今日はその歴史について見ていきたいと思います。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019115824j:plain

 

鳥羽市安楽島町加布良古崎の先端に建つことから、

地元では「かぶらこさん」の愛称で親しまれています。

加布良古大明神」という異名も持つそうです(神仏習合の名残ですね)。

 

境内に向かう途中に出会える美しい志摩の海岸は

氏子さんたちが清掃活動をしていらっしゃいます。

 

 

f:id:itoshiya8ise:20201019120110j:plain

 

 

「日本一参拝が困難な一宮」と呼ばれるだけあって(地元情報なので真偽は謎)、

山道を登り、フィニッシュは石段です。

(石段と並行してスロープもありますが、逆に下りは膝に来ます)

 

また、この加布良古崎の地へも車以外での到達が若干不便です。

かもめバス「安楽島方面行き」の終点「安楽島」が最寄りのバス停ですが、

発着数が少ないのでご注意を。

更に鳥居まで徒歩約30分くらいかかります。

 

この海に向かって立つ鳥居は、

昭和初期までは海岸まで船で来て参拝した名残だといわれています。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019115938j:plain

 

創建は1500~1600年ほど前だと推測されています。

 

御祭神の稚日女尊を海の道から加布良古崎へ祭祀したのが起源といわれ、

志摩国海上守護神として古代から崇敬されたと伝わります。

 

延喜式神明帳』には「答志郡粟島坐伊射波神社」と記載があります。

また建久3年(1192年)、皇太神宮年中行事には「加布良古の明神」との記載も。

 

『外宮旧神楽歌』には

志摩国知久利が浜におわします悪止・赤崎・悪止九所のみまえには、

 あまたの船こそ浮かんだれ、艫には赤碕のり玉う。

 舳先には大明神加布良古神)のり玉う。

 加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし、

 加布良古の沖の汐ひかば、都へなびけ、我も靡かん。

 加布良古の大明神にお遊びの上分を参らする請玉の宝殿」

とあります。

 

赤崎は同じ鳥羽市内にあります外宮の末社です。

(参考;【( 125社めぐり】 外宮 末社 赤崎神社 - 伊勢河崎ときどき古民家

 

f:id:itoshiya8ise:20201019120034j:plain

 

御祭神は、

稚日女尊

伊佐波登美尊

玉柱屋姫命

狭依姫命

 

稚日女尊はアマテラス大神が岩戸に隠れるきっかけとなった、

スサノオの暴挙で亡くなった神様です。

斎服殿で神衣を織っていたとき、スサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだため、稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭で身体を傷つけて亡くなった)

 

また、神功皇后三韓征伐の折に、

「尾田(現、三重県鳥羽市の加布良古の古名)の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋= 安楽島)に居る神」

として現れた神が稚日女尊であるとされています。

そしてこのとき神が坐しましていたのが、この伊射波神社なのです。

 

(その後、稚日女尊は神戸の生田の宮に移ります。

 神功皇后三韓外征の帰途、難波へ向おうとしたが船が真直に進めなくなったため、武庫の港(神戸港)に還って占いを行ったところ、稚日女尊が現れられ「私は活田長峡国にいたい」と神宣があったので、海上五十狭茅に祭らせたとあり、これが今日の生田神社であるといいます。)

 

また、稚日女尊天照大神自身のこととも、

幼名であるとも言われ(生田神社では幼名と説明している)

妹神や御子神であるとも言われています。

丹生都比賣神社和歌山県伊都郡かつらぎ町では、

御祭神の水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が

稚日女尊であり、天照大神の妹神であるとしているそうです。

 

(余談;水銀鉱床の神である丹生都比賣大神といえば、

 多気町の丹生神社も彷彿とさせますね。

 水銀は不老不死や若返りの妙薬ともされていましたし、

 何か関係があるかもしれません)

 

伊佐波登美尊は『倭姫命世記』によれば、

倭姫命皇大神宮の朝夕の御贄を奉る地を探して志摩国を訪れたとき、

この神が出迎えたとしています。

安楽島の二地の鳥羽贄遺跡がこの神の本宮跡で、平安時代後期に現在地へ移ったと言われます。(『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』)

 

玉柱屋姫命は、伊雑宮の『御鎮座本縁』などでは天叢雲命の裔、伊勢国造の祖・天日別命の子であるとされています。

伊佐波登美命の妃神と解説する本もあります。(前出)

 

狭依姫命は、宗像三女神の1柱市杵島姫命の別名とされています。

近くの長藻地と言う島に祀られていたそうですが、

島が水没したので当社に合祀されたと言われています。(前出)

 

女性の神様が多いせいでしょうか、

御神威は、縁結び・夫婦和合・海上安全・大漁祈願・五穀豊穣・合格祈願・病気平癒(特に女性)

とされています。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019120002j:plain

 

この加布良古崎には、更にもう一柱の神様が祀られています。

それは、領有神(うしはくのかみ)です。

 

稚日女尊らが祀られる正殿のそのまた先、

神社で神木とされることも多いナギの木も見られる森の中を行き、

先端の岬に鎮座します。

(写真はないですが、お社もあります)

 

f:id:itoshiya8ise:20201019120502j:plain

 

うしはくとは、神道における古語で「支配する、領知する」という意味を表します。

漢字で書けば、「領(うしは)く」となります。

神の力を表す「大人(うし)」と、身につける意味の「佩(は)く」が語源になっていると言われ、

「うしはく」は神々に対して用い、「しらす」は主に皇室に対して用いられる言葉です。

 

「うしはくのかみ」聞いたことあるな…と、国文畑出身・万葉集の時代専攻の私は思ったのですが、その場ではどうしても思いませず…。

後々調べてみたところ、万葉集に6例あるそうです。

特にそのうちのひとつが、

「住吉の 現人神(あらひとがみ) 船舳(ふなのへ)に うしはきたまひ」6-1020

と、船の舳先に人身で現れています。

これは前述した『外宮旧神楽歌』の

「舳先には大明神加布良古神)のり玉う。」

と見事に合致していますね。

 

またうしはくの神は海以外にも山にも登場しています。

 

日本書紀では天つ神が国つ神に対し

「おまえが領有する(=うしはける葦原中国は、私の御子の支配する国だ」

とも言っています。

 

(参考→うしはく (意味とはフレーズ表現辞典)

    國學院デジタルミュージアム)

 

つまりうしはくの神は、その領主である神で、

加布良古岬―しいてはこの志摩の国を治めていた神なのでしょう。

 

↑のご由緒に見られる「宇志波那流神」は、

「うしはなる神」=「うしは・なる神」=「うしはくである神」

ではないでしょうか?

(漢字の当て方は奈良時代以降のような美しさですね)

 

今でもこの岬を通る漁師さんたちは

かぶらこさんに手を合わせると聞いたことがありますが、それも頷けます。

 

 

 

 

 

 

【鳥羽の神事】 伊射和神社祭礼に参加してきました(2018)

鳥羽の一の宮、伊射波神社では、

11月23日に祭礼が行われます。

 

昨日、11月23日は新嘗祭の日だから勤労感謝の日ですよ、

というお話をしましたが、

ここ鳥羽の収穫は海の幸です!

つまりは豊漁のお祭りですね。

 

その伊射波神社の関係者に知人がいるご縁で

祭礼に参加させていただいて来ました♪

一昨年2018年のことなのですが…

 

当時SNSに上げた記事でご紹介させていただきたく思います。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019110124j:plain
快晴の今日、
志摩の一の宮、伊射波神社さんの祭礼にお邪魔しました。

 

全国の一の宮史上一番険しい?とも言われるこちらですが、
 途中に見える海は格別✨

 

 前回お邪魔したときは曇り空でしたが
秋晴れの眩しいお天気に、海の神様もウキウキしていそうなそんな海の色でした。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019111002j:plain

 

お祭は地元の皆様や観光客の皆様に見守られながら行なわれます。

 

参加は自由です。

氏子の皆様はもちろん、

近所のゲストハウスのオーナーさんが宿泊客を連れて来ていたり、

御朱印をもらいに来て参加した…という参拝客さんまで色々です。

地元テレビ局もカメラを片手にやって来ます。


式次第は順調に進み、

可愛い舞姫ちゃんたちの舞や迫力の太鼓の調べが厳かに納められます。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019110348j:plain

 

f:id:itoshiya8ise:20201019110317j:plain

 

↑実は知人の知人の御孫さんが舞っていました。

いいなぁ、舞姫、憧れたなぁ。やってみたかったなぁ。

貴重な経験ですよね。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019110457j:plain

 

もうひとつ、↑で見逃せないのは神様の御前の海の幸の数々…!!!

地元の漁師さんや海産物屋さんから奉納されています。

そしてお祭りはクライマックスに、、、!

 

f:id:itoshiya8ise:20201019111352j:plain


伊射波神社さんは、鳥羽の先端の海の神様。
そこで、大漁祈願が行われます。
めっちゃダイナミックに!

社殿の前に張られた網に向かい
「大漁~~~っ」
の声と共に魚を投げるのです!

 

f:id:itoshiya8ise:20201019111434j:plain

 

奉納されている立派な鯛は、どすっ、と立派な音を立てて落ちます(笑)。
 小さな鯛もぽすぽすと投げ込まれます。
 網にかかるもの、着地するもの、みるみる社殿前に魚の群れが、、、!

 

f:id:itoshiya8ise:20201019111415j:plain

 

私も鯛を投げさせてもらいました♪
「大漁ー」
 生魚を投げるのは人生初めてだと思う(笑)。
 楽しい(笑)。

 

f:id:itoshiya8ise:20201019111503j:plain

 

そしてその後には嬉しいふるまいタイムが✨

さっき投げられた鯛や太刀魚や諸々の魚たちがダイナミックに網の上に!
こんなダイナミックバーベキュー見たことない😆
皆で「鯛の贅沢焼き」と呼ぶことに(笑)

新鮮な鯛は、身がふわふわで優しいお味。
 鯛の種類によって味や身のしまりが違って、鯛の味比べという贅沢体験。

…毎年参加させていただきたい!!!

 

f:id:itoshiya8ise:20201019111315j:plain


そして、あらしまの朝市の大人気店からの山のような牡蠣✨
焼き牡蠣に蒸し牡蠣。
 鳥羽市長がじゃんじゃん剥いてくださり、いくつも戴いちゃいました。
 焼きもいいけど、蒸しが味が詰まって最高!

あと、御神酒が恐ろしく美味しかったのですが、
どこのお酒なのか?
 気になりつつも帰りました(笑)。

 

伊射波神社の皆様、かぶらこの神様、
ありがとうございました💕

 

【神宮の神事・番外編】大嘗祭・新嘗祭とは?

昨日は伊勢神宮の神事である神嘗祭についてざっくりとですがお話ししました。

「かんなめのまつり」とは、「かむにえ」、神様が贄を食すお祭りでしたね。

 

では、よく似た神事である新嘗祭大嘗祭とは何でしょう?

 

f:id:itoshiya8ise:20201018081043j:plain

 

大嘗祭は昨年行われましたので、皆様ご記憶に新しいかと思います。

宮中に大嘗宮が建てられ、その見学も後日行われましたね。

 

ちょうどその頃に、私は伊勢から東京に戻りましたので、

もちろん見学に行きました。

今日はその写真を添えていきたいと思います。

f:id:itoshiya8ise:20201018081141j:plain

 

大嘗祭天皇陛下即位式のような位置づけにもとられていますが、

天皇が即位して最初の新嘗祭のことを言い、

古くは同一祭事の同義語とされていたと伝わります。

 

大嘗祭に関する宮内庁の資料にも、

 

 「7世紀中頃までは,一代に一度行われる大嘗祭

 毎年行われる新嘗祭との区 別はなかったが,

 第40代天武天皇の時(御在位673~686年)に,

 初め て,大嘗祭新嘗祭とが区別された。

 爾来,大嘗祭は一世に一度行われる極め て重要な皇位継承儀式とされ,

 歴代天皇は,即位後必ずそれを行われることが 皇室の伝統となった。」

 

とあります。

 

ここにも天武天皇

天武天皇は伊勢だけではなく、宮中祭事も整えたのですね。

 

f:id:itoshiya8ise:20201018081212j:plain

 

大嘗祭新嘗祭の大きな違いは、やはり大嘗宮が建てられることです。

新嘗祭は毎年行われる宮中祭事なので、逐一宮を建てることはなく、

宮中三殿の近くにある神嘉殿で行われます。

 

大嘗宮は、宮中の約90メートル四方、

約2,700平方メートルの敷地に建てられます。


悠紀殿(悠紀殿供饌の儀を行うための建物)

主基殿(主基殿供饌の儀を行うための建物)

廻 立 殿(大嘗宮の儀に先立ち天皇及び皇后が御潔斎や召替えをなさる建物)

 

を中心に,関連する建物や参列者幄舎など大小30余の建物が設営されます。

 

これらの建物は,床は筵又は畳表を敷き,

扉及び壁は畳表を張り,

柱は加工をしない皮つきの丸太を用いるなど,

伝統的に質素なものとされているそうです。

宮内庁資料より)

 

秋篠宮さまが費用面などご心配されていましたが、

伊勢の式年遷宮同様に、伝統を伝える意味でも

この宮を建てることには大きな意義があると私は思います。

 

f:id:itoshiya8ise:20201018081318j:plain

 

大嘗祭の細かな式次第についてなどは、

昨年あちこちでインフォメーションされてましたので

ここでは割愛させていただきますね。

宮の詳細や式次第などは、こちらの宮内庁資料がおすすめです。

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/pdf/shiryo011002-7.pdf

 

f:id:itoshiya8ise:20201018081347j:plain

 

では、新嘗祭とは何なのか?

それを見ていきたいと思います。

 

「新しい贄の祭り」

つまり、その年の豊穣を祝うお祭りです。

 

大嘗祭とは、

 「稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた

 収穫儀礼に根ざしたものであり,

 天皇が即位の後,初めて,大嘗宮において,

 新穀を皇祖(天照大神)及び天神地祇(すべての神々)にお供えになって,

 みずからもお召し上がりになり,

 皇祖及び天神地祇に対し,

 安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに,

 国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。
 それは,皇位の継承があったときは,

 必ず挙行すべきものとされ,皇室の長い伝統を受け継いだ,

 皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式である。」

と先述の宮内庁資料にありますが、

 

新嘗祭

 「稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた

  収穫儀礼に根ざしたものであり,

  新穀を皇祖(天照大神)及び天神地祇(すべての神々)にお供えになって,

  みずからもお召し上がりになり,

  皇祖及び天神地祇に対し,

  安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに,

  国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。」

というものです。

 

つまり、

 「天皇が即位の後,初めて,大嘗宮において」

ということ以外は大嘗祭新嘗祭も同じなのです。

 (と私は理解しています)

 

f:id:itoshiya8ise:20201018081416j:plain

 

つまりは、新嘗祭神嘗祭同様に収穫祭なのです。

日本の神道の長である天皇陛下が一年の収穫に感謝を捧げる儀式ですので、

日本全国の神社でも同日に新嘗祭を行うところが多いです。

もちろん伊勢神宮でも新嘗祭の大御が行われます。

 

「でも、自分は神道じゃないし、関係なくない?」

と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、大いに関係あるんですよ。

実は皆さんもこの日は収穫祭に参加しているんです、ある意味。

それはこの日が「勤労感謝の日」なんですよ。

 

勤労感謝の日

「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」

祝日法に現在もあります。

もう、収穫祭そのものですよね。

 

そう、日本のハロウィンは11月23日なのです!

(*ハロウィンの起源は収穫祭+お盆のようなもの)

 

f:id:itoshiya8ise:20201018090926j:plain

 

ただ、新嘗祭には他の意義もあるという指摘が古くからあります。

それは、神道の長である天皇が神前で新穀を食すことにより

天照大神の霊威を身に受けて、それを更新する神事である、という説です。

 

私たちの測り知らないところで、天皇陛下は日々祈りを捧げ、

数々の神事を行われています。

これはかなり心身共にお疲れになられることと存じます。

そこで、そのための力を年に一回神様と同食&同寝することでチャージする日だというのがこの説です。

 

これもピンと来ない方が多いかもしれませんが、実は私たちもやっています。

それは、お正月です。

 

新しい歳の神様を迎えるために年末に大掃除(大祓)をして、

門松やお飾りというウェルカムボードを立て、

お節料理でおもてなしをしますよね。

この時のお箸は両方が研いである祝箸を使います。

このお箸こそが「片方は神様、片方は自分」がつかい、神様と同食することで

その歳のパワーをいただいているという古来の習慣なのです。

 

話が逸れましたが、

実は新嘗祭神道の思想は日本の隅々に生きていると

お伝えしたかった次第であります。

 

f:id:itoshiya8ise:20201018081529j:plain

 

でも、なぜ神嘗祭新嘗祭があるの?

といいますと、「神様バージョン」「宮中バージョン」の違い、

つまり「神様(天)の祭事」と「宮(地、国)の祭事」であるというような説明が多いです。

 

確たる立証はないのですが、私の知っている見聞から紐解きますと

 

まず、神様に収穫を感謝し、その年の初穂を最初に食べていただき(神嘗祭)、

そのあと国の民は新米を口にする。

全ての国民が新米を食べたのを確認してから天皇も収穫を感謝して神と同食し、

更に次の1年のために神様からパワーを頂戴する(新嘗祭)。

 

といった感じです。

 

そして、即位後初めての新嘗祭は、神様に自己紹介や今後の良好な関係性をお願いするために大きく行う(大嘗祭)、

のではないでしょうか?

(もしくは、神の力を宿すために行うともいえますね)

 

f:id:itoshiya8ise:20201018081104j:plain

 

↑さて、こちらはおまけ映像です♪

なんと!黄櫨染御袍を着たダッフィーです!!!

 

黄櫨染御袍は天皇陛下のみが着用できる禁色の袍衣で、

特に大事な行事でのみお召しになられます。

 

あまりのクォリティーに写真をお願いして撮らせていただいちゃいました♪

 

ちなみに、ダッフィー船長さんという方です♪

2019年12月5日のブログ記事一覧-ダッフィー船長航海記 / Captain Duffy

 

いやぁ、すごい方がいらっしゃる!!!
出会えてラッキーでした♪

【神宮の神事】 神嘗祭

その年の初穂を神宮に納める初穂曳についてこの数日お話しました。

この初穂が神宮に奉納されると行なわれるのが、神嘗祭です。

 

神宮の祭事で最も大切な神事になります。

 

そのタイムスケジュールは以下になります。

(今年バージョンですが伝統的に日時は変りません)

 

■外宮(豊受大神宮
  由貴夕大御饌  10月15日(木) 午後10時
  由貴朝大御饌  10月16日(金) 午前2時
  奉  幣      10月16日(金) 正午         
    御神楽       10月16日(金) 午後6時

 

■内宮(皇大神宮
  由貴夕大御饌  10月16日(金) 午後10時     
     由貴朝大御饌  10月17日(土) 午前2時
  奉  幣      10月17日(土) 正午          
   御神楽       10月17日(土) 午後6時

 

神嘗祭に付随する神事は、初穂が奉納された日の夜から始まります。

もちろん参拝時間外ですので、一般の人は見ることは叶いません。

 

昼間、参拝時間内に行なわれます奉幣や御神楽は参道から垣間見ることができます。

 

f:id:itoshiya8ise:20201017085329j:plain

 

そもそも神嘗祭ってどんな神事なのでしょう?

 

神宮にHPには以下のようにあります。

 

「年間1500回に及ぶ神宮の恒例のお祭りの中でも、最も重要なお祭りが神嘗祭です。
 神嘗祭は、その年に収穫された新穀を最初に天照大御神にささげて、

御恵みに感謝するお祭りで、由貴大御饌と奉幣を中心として、

興玉神おきたまのかみさい御卜みうら御神楽みかぐらなどの諸祭を行います。
さらに附属のお祭りとして、春に神宮御園じんぐうみそので行われる御園祭みそのさい

神宮神田じんぐうしんでんで行われる神田下種祭しんでんげしゅさい

秋の抜穂祭ぬいぼさい酒殿みさかどのさい御塩殿祭みしおどのさい大祓おおはらいがあり、

神宮の年間の祭典は神嘗祭を中心に行われているといっても過言ではありません。」

神嘗祭|年間行事|神宮の祭典と催し|伊勢神宮

 

具体的に何が行なわれるのかといいますと、以下のようにあります。

 

神嘗祭は、6月・12月の月次祭と共に「三節祭さんせつさい」と呼ばれ、

神宮の最も由緒深い祭典です。

浄闇の中、午後10時と午前2時の二度にわたって由貴大御饌の儀が行われ、

神宮神田で清浄に栽培された新穀の御飯・御餅・神酒を始め、海の幸、山の幸をお供えし、

明くる正午には、勅使をお迎えして奉幣の儀を奉仕します。

お祭りでは秋の実りに感謝申し上げ、

皇室の弥栄、五穀の豊穣、国家の隆昌、並びに国民の平安を祈願します。
神嘗祭は、両正宮に引き続き25日まで、

別宮を始め、摂社・末社・所管社に至るすべてのお社において行われます。

なお、両宮の内玉垣には天皇陛下から奉られた御初穂を始め、

各地の農家から寄せられた稲束(懸税かけちから)が奉献されます。」

神嘗祭|お知らせ|伊勢神宮

 

ちょっと具体的にはわかりにくいですね。

平たく言いますと、元来神嘗祭とは祭祀者である天皇天照大神にその年の新しいの実りを奉納し、

その年の収穫に感謝を捧げる祭事です。

 

721年(養老5)9月11日に元正天皇伊勢神宮に使を遣わして幣帛を奉って以来、

毎年、幣帛使が遣わされるようになったといわれます。

現在の奉幣がそれにあたりますね。


陰暦では9月17日、明治12年(1879)以降は10月17日に行われるようになり、

国祭日とされていました。

 

では、由貴夕大御饌・由貴朝大御饌とはどんな神事かといいますと、

アワビや伊勢エビなど約30品目も並ぶ夕食と朝食を神様に捧げることです。

カムナメ」は「カムニヘ」の転訛であるとも言われています。

「由貴」とは、この上なく貴いという意味があります。

 

↓がそのお食事メニューです。

(鳥羽・海の博物館展示より)

 

f:id:itoshiya8ise:20201017092444j:plain

 

さて、この神嘗祭には天皇陛下ご本人は伊勢に来られることはありませんが、

伊勢神宮祭主で天皇陛下の妹である黒田清子さんは

15日から17日までの3日間、内宮と外宮でそれぞれ、

由貴夕大御饌祭、由貴朝大御饌祭、奉幣に御奉仕をされます。

 

きっと伊勢の斎宮もこのように奉仕なさったのでは?

と妄想を広げてしまいます。

 

また、天皇が勅使を遣わせて参拝は直接なさらないのは、

上述しました奈良時代元明天皇からの伝統ですね。

元明天皇は神宮を整備した天武天皇持統天皇の長男の嫁で、

持統天皇とは父方では異母姉妹、母方では従姉妹にあたります。

 

神嘗祭の勅使は例幣使といい、

五位以上の諸王の中から選ばれ中臣・忌部らの官人がそえられたそうです。

 

かなり位の高い方が奉幣を行なっていたのですね。

このことからも、神嘗祭は朝廷でも重要な祭事のひとつであったことがよくわかります。

 

欧米の収穫祭であるハロウィンがすっかり定着した日本ですが、

古来からの日本の収穫祭であるこの神嘗祭にも思いを馳せていきたいものですね。

(まずは国祭日に戻してほしいなぁ…)

 

☆追記☆

今日の初穂曳に参加した友人から聞きましたが、

今年は自粛のため川曳は行なわずに、

初穂の奉納だけを行なったそうです。

来年は川曳も行なわれますように。。。祈願!